本物を維持しながら外国人の味覚に適合する日本料理を開発していく必要がある
学校法人辻料理学館 辻調理師専門学校理事長/校長 辻 芳樹 氏
財部:
最初に、赤福の濱田典保社長とのご関係を伺いたいのですが。
辻:
経営者の会であるYPO(Young Presidents' Organization)のつながりです。濱田さんとは年齢が2つしか離れていませんが、(YPOでは)普通ではとてもお会いできないような方々と一緒に飲み、愚痴も言い、議論し合っています。日本の社会には年功序列の傾向が強くお互い言いづらい事もありますが、年齢の関係なく腹を割って話せるのは有り難い事と感じています。
財部:
そうですか。
辻:
(YPOを)卒業した先輩方とも好き放題に言い合える仲ですし、年下のメンバーも、経営者として私たちとどんどん議論し合えます。それでも、辻調理師専門学校は設立たったの53年、いっぽうで赤福さんは江戸の観光業が生まれた頃に創業しています。300年以上の歴史は半端なものではありませんので濱田さんに対する言葉には気をつけています(笑)。
財部:
そうですね。300年以上の歴史を背負っていくことの意味は重いと感じました。今回、私が辻さんにお目にかかるのが非常に楽しみだった理由が2つありまして、その1つは、以前『サンデープロジェクト』という番組を一緒にやっていた大阪・朝日放送の枝格(えだとおる)というプロデューサーとの関係です。慶應義塾大学の同級生なのですが、彼は大阪で辻さんと一緒にテレビ番組をやっていたそうですね。
辻:
よく存じ上げております。
財部:
実は彼が数年前に亡くなったのです。彼は私を本当に支えてくれた恩人の1人で、事あるごとに「辻調、辻調」と話していました。彼が番組を作ってきた中で、輝かしい職歴の1つが辻さんとのお仕事だったのです。「本当に楽しかった。非常に良いものを世の中に発信できた」と彼が話していたことが、私の記憶の中に強く残っています。そういうわけで、『経営者の輪』の対談で辻さんをご紹介いただいた時、「辻さんはこのことをご存じなのかな」と真っ先に思ったのです。
辻:
もちろんです。枝さんは非常に人を大切にされる方でした。単にプロデューサーとして、映像としての料理を演出するだけでなく、当校の職員とも知的な関わり合いを大切にしながら、料理を番組的にも知的なものにすることに心を砕いていました。
12歳で留学し身に着けた本物の国際感覚
財部:
それからもう1つ、私が楽しみにしていたのは、辻さんご自身の人生のお話です。12歳でイギリスのイートン校に留学されていますね。
辻:
イートンは居候だけですが(笑)。
財部:
その後、アメリカにも行かれて大学を卒業されていますが、私には辻さんのお父様の問題意識がよくわかります。私自身も息子にそういう道を歩ませましたが、うちの場合は息子が高校を卒業してから海外に行かせました。世間では留学のプラス面ばかりが強調されていますが、幼少の頃から海外で生活するのは非常にリスキーです。1つ間違えば、日本人としてのアイデンティティが持てなくなり、帰国後に日本の社会に馴染めなくなるのではないか、という心配もあります。お父様はそういうことにも配慮していたのではないかと思いますが、辻さんご自身も相当苦労したのではないですか?
辻:
私にも16歳と12歳の子供がいますが、この年で留学させるのはかなり厳しいと思います。妻がまず手放さないでしょう。その意味で、子供が大きくなればなるほど、自分がその年齢だったときの父(辻調グループ創設者でフランス料理研究家の辻静雄氏)のことを思い出します。父は、私を海外に行かせてそのまま突き放しただけではなく、良い意味で手厚いフォローもしてくれました。
財部:
それは具体的にどんなことですか。
辻:
飛行機を降りるところから生活習慣、海外とはどんなものかというところまで多岐にわたります。今、父が私に送った手紙を読むと「私を海外に行かせるために、これだけの指導をしてくれたのか」と非常に感慨深いものがあります。でもそれは最初の1年だけで、それ以降は一切音沙汰がなかったのですが、父からの手紙は、詳細にわたる解説文や説明から「ああしなさい、こうしなさい」という細かいアドバイスまで、一面文字で埋め尽くされていました。
財部:
私も、そういう話は聞いたことがありません。辻さんご自身は小学生の頃、いずれ自分は海外に行くのだという気持ちはあったのですか。
辻:
一切ありません。父はアメリカ、ヨーロッパを相手にずっと仕事をしていましたから、視野は狭くはなかったと思います。(私を)早く大阪から出さなければならない、という気持ちは強かったでしょうね。
財部:
それを、辻さんご自身は受け止めたのですか。
辻:
受け止めるも何も、命令ですから嫌とは言えません(笑)。私も10歳のときにフランスのレストランに約2週間働きに行くなど、海外にたびたび行っていたので、日本を離れることに関して違和感は一切ありませんでした。ただ、(留学の件は)2カ月前に急に言われたので、何と勝手な親だろうと思いました。しかし、(留学するのが嫌だと言って)泣いたとか、親から離れるのが嫌だということは全くなかったですね。
財部:
それはなぜでしょうか。
辻:
先ほど申し上げましたように、最初の1年間は、父の手厚いフォローが徹底していたということが1つ。また母が約2年間にわたり、「天声人語」を新聞から毎日切り取って、それを1カ月分まとめて送ってきてくれたのです。それはなぜかと言うと、父が「どんなに外国になじんでもいいが、絶対に日本語を忘れるな。金髪の女性と男性だけは頼むから連れて帰ってくるな、と(笑)。お前もあとで苦労するから、それだけはやめておけ」と普段から話していたからです。この2つは徹底していましたね。
財部:
お父様は本当にグローバル・センスをお持ちだったのですね。
辻:
自分の夢を子供に託したかったということもあるでしょう。これだけは自信を持って言えますが、「天声人語」はきちんと読みました。中学3年生になった頃からは、さすがに送ってこなくなりましたが。一方、父の手紙は「フランスに行ったらこうしなさい、こういうものがあるから見て来なさい、食べて来なさい」という話ばかりで、「頑張れ」ということは一切書いてこないのです。
財部:
そうなんですか。
辻:
私は、15歳の時にヨーロッパを1人で旅しています。今度、長男が慶應義塾高校(以下、塾高)に入学するので、その前に海外に行かせたいと思い、イギリスを考えたのですが、「16歳のお子さんを、ロンドン市内を1人で歩かせるようなプログラムはありません」と言われました。自分が中学生の時にヨーロッパを歩き回っていたことを思うと、いかに今の子供たちが過保護に育てられているかがわかりますね。
財部:
私の息子は慶應義塾普通部から塾高に進み、アメリカの大学に留学したのですが、そんな生徒は塾高始まって以来初めてだと言われました。彼の場合も、18歳まで日本にいて、大人に近い素養を身に付けてから留学したにもかかわらず、4年間のアメリカ生活の中で「自分は一体は何者なのか」と悩み、日本人としてのアイデンティティが非常に危うい状況になっていたのです。
辻:
そうですか。
財部:
息子は「僕は、アメリカで学者になろうかな」とも言いました。それはそれでいいのですが、アメリカ人でもなく、日本人としてのアイデンティティも揺らいだまま、何となくアメリカ社会に入り込んでしまったような状態です。そこで私は「自分が、アメリカ社会の中で本当に働いていけるという明確な認識を持てずに卒業してしまうのはよくない。1度帰国し、1人の大人として日本社会を見たうえで、やはりアメリカに行くと言うなら好きにすればいい」と言ったのです。辻さんは日本人としてのアイデンティティには違和感なく過ごされたのですか。
辻:
それは「鶏が先か卵が先か」の問題で、順番はどちらでもいいと思います。私のように早く海外に行ったがゆえに国民意識、愛国心が強くなったパターンもあれば、日本しか知らずにいきなり海外に行ったため、中途半端に外国人のようになってしまう人もいる。でも国民意識はいずれ戻ります。「それは偽物の愛国心だ」という人もいますが、サッカーの国際試合で行われる国歌斉唱がきっかけで、国歌を覚える若者もいるわけです。その意味で、海外に出る年齢は、あまり関係ないと思いますね。
財部:
なるほど。