本業だけに特化してスリム化
財部:
でも、難しいですね。中期経営計画の予算を立てる際、各部の希望予算を積み上げたら、巨大な数字になった、とうかがいました。
井田:
最初の予算を見たときにはひっくり返りそうになりました。「こんなに血の汗を流しながら頑張ってきたのに、また、赤字会社に逆戻りしたいのか!」と突き返しました。
財部:
過大な数字が出てきた背景をどう分析されますか。
井田:
会社の状態が上向きになってキャッシュも潤沢なると、社内が緩みます。「3〜4年の間、俺たちはやりたいことを我慢してきた」という意識がでてきます。「機械が欲しかったけれど買えなかった」「開発がしたかったけれどできなかった」という欲求が噴出してくるのですね。
しかし、そういうことを今まで続けてきたから利益が出なかったわけで、それを飲んでしまったら、また昔の赤字体質に戻ってしまいます。
財部:
それで予算を組み直させたのですね。なかなか難しいですね。
井田:
私たちはまだ無借金経営の「エクセレントカンパニー」になる途上、過度期にいます。減ったとはいえまだ3600億円の借金を抱えていますから、夢があっても削らなくてはいけない部分がまだまだあります。
財部:
一番厳しい状況だったのは、2002年で、借金が一兆円を超えていました。それを3612億円にまで劇的に減らしました。どんな意識でとりくまれたのですか。
井田:
社長になった当時、借金は1兆700億円。「1年に100億円ずつ返していても、107年かかってしまうじゃないか」と社員に話したものです。「税金を払って、配当も入れると、毎年、400億円から500億円の利益を出して、やっと100億円を返すことができる。それをこの先、107年間続けなければならない。それこそ孫子の代まで借金を背負っていかなければ返済できないほどの借金なんだぞ」と言い続けました。
財部:
そうなると、出来ることはなんでもやるということになるのでしょうね。
井田:
まずオペレーション上の無駄を徹底的になくす。それから資金回収ができない理由がどこにあるか、売掛金の見直し作業を毎週嫌というほどやりました。資産のムダも見直しました。本社ビルの売却を皮切りに、本業に必要なものだけ残すという考えで、徹底的なスリム化を行いました。そのかいあって、みなさんが想像していたよりもはるかに早く目標に到達できたわけです。
財部:
来年度以降、新しい中期経営計画期間に入りますが、財務の立て直しの面では、借金返済が一番の目的になってくるのでしょうか。
井田:
借入金があっても、オペレーション上の利益をきちんと出し、なおかつ拡大のチャンスがあるのなら、事業拡大による増収を目標にするのも悪いことではありません。しかし、過去をふりかえると、財務の健全性というのは非常に大切です。借入金があると、どうしても制約を受けますよね。
財部:
銀行に頼らずに、資金面で自立したいということですね。
井田:
バブルのころは銀行側はみな「借りてください」と言ってきたものですよ。「お貸ししますよ」と言われて、「じゃあ借りましょう」というのは簡単です。しかし、借りたおカネは必ず返さなければなりません。しかも会社がダメになった時には、返済の猶予も失う。即座に返還しなくてはいけなくなる。
喉元すぎても熱さを忘れず
財部:
井田さんが社長に就任した当初から財務は厳しかったですよね。
井田:
「返せ、返せ」の合唱団で、財務の社員たちは毎日死ぬ思いでした。私だけではなく、関連企業を含めてみなが銀行から責められて、本来の仕事どころじゃなかった。それがいまでは「借りてください」の大合唱。状況がひどい時に貸してほしかったですよ(笑)。結局、金融機関というのは、おカネが必要ないという会社にばかり貸したがるのですね。
財部:
本来、逆ですよね、それは。
井田:
でも世の中ってそういうものですよ。上手くいかない会社には、厳しい。だから社員には「借金を返す辛さを絶対忘れちゃならんぞ」といつも言っています。あんな辛い思いを次の世代には絶対させたくありませんからね。
財部:
いすゞは劇的なV字回復を達成しましたが、そのプロセスで社長の心に一番強く残っている記憶はどのようなシーンですか。
井田:
財部さんが以前、「会社というのは潰しちゃダメ。すごく悲惨なことになる」とおっしゃいました。自分のことだけならともかく、真面目に働いてきた従業員が職を失い、家族を養う術を失ってしまう。だから「このまま会社が潰れたら路頭に迷う人たちをたくさんつくってしまう」という暗澹たる気持ちでずっといました。それが「負けてたまるか。こんなところでへたばってたまるか」という気持ちの原動力でした。
財部:
「もしかしたら本当に倒産するかもしれない」という恐怖を感じた瞬間はいつでしたか。
井田:
株価が下がりに下がって31円台になったときは、「いすゞ自動車というのは社会に必要とされていないのか」と愕然としました。当時はまだ発表できませんでしたが、GM(ゼネラルモーターズ)とみずほコーポレート銀行の支援で再建計画をちょうどまとめかけていたころだっただけにね。
株式市場がすべてではありませんが、あそこまで売り込まれると「いすゞは世の中に必要とされない会社なんだ」と言われているように思いました。
財部:
逆に「これで会社が生き残れる」と思えた瞬間は、いつでしたか。
井田:
再建計画を発表して、最初の決算で151億円ほどの営業利益が出た時ですね。「これで、いけるな」と思いました。
財部:
2002年、 株価が31円をつけた、まさにその年ですね。そこで「いける」という手応えを感じたわけですね。
井田:
ええ。03年に年がかわっても、1月、2月と毎月黒字が出ていました。「着実に利益が出る体質になったな」と感じました。
財部:
同時並行で、トラックの生産を藤沢工場に集約し、ピックアップ・トラックをタイに集約したり、一連の大リストラを行いました。初めから、うまくいくという見通しはあったのでしょうか。
井田:
川崎工場を閉鎖してトラックの生産を藤沢工場に集約することの経済効果はわかっていたし、やるしかなかったのですが、大型トラックと小型トラックを同じラインで一緒に生産をして問題が起きないだろうかとかいう心配はありました。
財部:
実際に統合してみたら、形も大きさも工程も違う何千種類ものトラックを一つのライン生産するのはやは難しく、なかなか立ち上がらなかったという話も聞きましたが・・・。
井田:
心配でしたね。藤沢の工場長は「大丈夫だ」と言うから、じゃあ「見に行くぞ」と私が言うと、「いや、まだ来るな」と言う。実際に完成車が出てくるまでは「本当に大丈夫か」と悶々としていました。
それからピックアップ・トラックの生産をすべてタイ工場に持っていってしまうことの不安もりました。
財部:
メイド・イン・ジャパンではなく、メイド・イン・タイランドのクルマをヨーロッパのお客さまが買ってくれるだろうかという不安ですね。ただ、品質的には全く問題がなかったので、タイに持っていっても大丈夫だろうと最終判断しました。