J.フロントリテイリング株式会社 代表取締役社長  山本 良一 氏

財部:
山本さんは、そのあと営業改革推進室の部長を務めていますね。

山本:
奥田社長(大丸元社長、J.フロントリテイリング前会長の奥田務氏)になった時に、営業改革をやるように言われ、 自分が現場にいた時に感じた矛盾を全部洗い出してみました。高度成長時代に大量に採用した人たちがいる一方で、 百貨店の取引形態として売仕ビジネス(売上仕入。店舗に陳列した商品のうち、売れた分についてだけ仕入れを起こす手法。 消化仕入ともいう)が拡大していました。取引先が販売員を派遣し、販売も在庫の管理もしてくれるようになってから 変わってきているのです。私たちが入社した頃は、自分たちで仕入れて販売し、在庫の管理もするという仕事のやり方でしたから。

財部:
前はそうだったのですか。

山本:
私が入社したのは、百貨店の社員が自ら商品を仕入れ、在庫を管理し、どうやって最後まで売り切るかという時代でした。 百貨店はその業務を前提とした要員構造をとっていたのです。高度成長を迎え、数多く売れるので、回転率を上げるために、 取引先が「消化仕入」というビジネスモデルを作り、「商品」も「人」も入れるようになりました。そのシェアが拡大する一方で、 かつて大量採用した人たちはそのままで、コストがかかりすぎていたのです。売上も下がる中で、収益がどんどん悪化していました。 一方、競争が激しくなり、顧客ニーズはどんどん変化してきました。それに対応するために、新しい消化仕入のブランドを入れると、 さらに人が余るという状態になっていたのです。15年間売上が低下し続ける中で、「高コスト低収益構造」になっていたことが1番の 問題だったのではないでしょうか。

財部:
今、どんなことに取り組んでいるのですか。

山本:
マーケット志向でお客様の変化に素早く対応すると同時に、高コスト構造を反省し見直さなければならないのが今の百貨店です。 これを15年続けています。米のようなレイオフができれば、百貨店の採算性は非常に高まると思うのですが、それは不可能です。 そこでわれわれは時間をかけ、定年退職者の後を不補充という形で、余剰人員を少しずつ削減してきました。その一方で、 マーケット対応力を強化するためにさまざまな努力をしています。従来の百貨店にはなかった新ブランドの導入、新しい ライフスタイルに合ったMD(マーチャンダイジング)の展開などの対応もできるようになってきたと思います。

財部:
歴史的を振り返ると、百貨店はいわゆる「大店」で、数百年の歴史を持ち、資産も潤沢で、何かあってもすぐには倒れないような 会社が多かったと思います。逆にそういう部分が、改革への意欲に火がつきにくかった要因なのかもしれません。ところが大丸に 奥田さんが出てきて、大胆な営業改革を行いました。その実働部隊を山本さんが指揮したという形になりますが、奥田さんはなぜ 山本さんに前線を切り盛りさせたと思われますか。

山本:
(奥田さんとの)最初の接点は、1983(昭和58)年にオープンした大丸梅田店です。その準備室が約3年前に立ち上がりました。 その当時、あのような大型店の出店は百貨店の中でもそれほど例がありませんでした。当社の中でも、神戸・芦屋の小型店舗や 郊外店舗などはありましたが、約4万5千平米の大型店をターミナルに造るのは非常に画期的なことだったのです。そこで当時、 全社から人材を集めて準備室を作ったのですが、その要が奥田さんでした。奥田さんはその時、課長職で39歳くらいだったと 思います。私はまだ30歳そこそこした。私は家庭用品を担当していたので、リビング系のバイイングおよびリビング売場の構築と いう役割で準備室に入りました。

財部:
奥田さんのお仕事ぶりはどうでしたか。

山本:
奥田さんは営業企画課の課長でした。店長クラスの人もいましたが、実質的には奥田さんが仕切っていて、当時から凄い人だと 思っていました。われわれは商品のことはよく知っていますが、論理的に商品の売場を作っていくことには慣れていません。 ゼロから売場を作るのは非常に難しかったのです。奥田さんは、アメリカで学んできたマーチャンダイジングをわれわれに 教えてくれました。ターゲット設定に始まり、誰に向けて商売をするのか、どんなライフスタイルを持っている人に提案するのか。 そのためにはどんな商品分類で売場を構成していくのかということを、全部指導してくれたのです。その時、奥田さんから教えられて、 商売の見方がガラッと変わりました。

財部:
どこが変わりましたか。

山本:
私たちが育った時は、勘と経験と度胸でやっていたのです。奥田さんには論理的な店舗作りに加え、マーチャンダイジングを しっかり行い、ターゲットを誰に設定し、お客様のどんな変化に対してどんな商品を提供していくのかということを教えられました。 それを わりと忠実にやったので、私が梅田店で担当したところには良い店、良い売場ができていきました。そのあと奥田さんが 大丸オーストラリアの社長に就任し、私が奥田さんのあとの営業企画課長を務めてからも、その思想でずっと来ていたのです。 月日は流れてですが、奥田さんがオーストラリアから帰ってきて、「このままでは会社は駄目だ。もう一度営業のあり方を 抜本的に変えなければならない」と示唆され、私に来てくれと打診がありました。

財部:
当時の奥田さんのポジションは?

山本:
もう社長でした。その時、私は梅田の婦人雑貨部長でしたが、「本社に来い」と言われたのです。現場をよく知っているから、 ということだったと思います。奥田さんが社長になってすぐに、年に3回、定期的に部課長会議が開かれるようになりました。 私は部長として会議に出ていたのですが、その時に「こんなに人がたくさんいるのは絶対によくありません」とか 「アルバイトでもできる仕事に、なぜこんなに多くの人が要るのですか」と、たくさん言ってやったのです。まったく遠慮なく。 言いたいこと言える、問題意識のある人間だと思ってくれたのかも知れません。奥田さんが社長に就任した翌年の1998年1月に 奥田さんに呼ばれ、「営業改革推進部長をやってくれ」と依頼されました。ご自分で紙に書かれたミッションを1枚渡されて、 「最大の顧客満足を最小のコストでやれ」、「仕入れから販売までに至るすべての業務プロセスを見直せ」と。

財部:
ういうことが書いてあったのですか。

山本:
書いてありました。「戦略の要はこれだ」と言われたのですが、具体的に何をやるのかはよくわからない。奥田さんは凄い人だな と思ったのは、辞令を受けた2カ月後です。「山本君、5月に店長会議を行うまで3カ月あるから、それまでに「営業改革」の マスタープランを作って持ってきてくれ」と言われたのです。メンバー4人で、3カ月で作ったのですがその時は苦労しましたね。 それが当社の改革の原点になっています。

財部:
「マスタープランを作れ」というだけで、ヒントも何もないわけですよね。

山本:
ありません。人事、営業、マーチャンダイジングなどを専門とする4人でプロジェクトを組み、コンサルティング会社にも少し入って もらって議論を進めたのです。3カ月間ほとんどどこにも行かずに、会議室にこもりきりでマスタープランを作りました。

財部:
メンバーは、同じぐらいの年次の方だったのですか?

山本:
私よりも3つぐらい下で、当時の部長クラスです。泊り込みで論議を重ねる中で、なんとか営業改革の方向性だけは見えてきました。 結局は、現場における問題や課題をすべて洗い出し、店頭の業務を再設計しようということになったのです。 人がたくさんいるものですから、仕事が細分化されてバラバラと人に貼り付けられていたり、誰でもできる仕事を給料の 高い人がやっていたり、といった問題を整理しました。MDについてのやり方も、取引先に任せるところ、自分たちの やるべきことといった「役割分担」のフレームを作って提案したのです。それがおおもとなのです。

財部:
それをどう実践していったのですか。

山本:
毎月の店長会議で営業改革の進捗を報告しました。課題を具体化したら、「このように具体化しました」と報告・説明して、 店長に納得してもらったうえで、前へ進めていくというやり方です。その結果「仕入や販売、雑務のやり方を変えれば、 こんなに人はいりません」と店長に説明して、年次ごとに要員構造を決めてマトリクスに整理し、「この売場はこの人数で回せます」 と退社不補充でコストを削減していきました。最初は雲をつかむような話だったにもかかわらず、徐々にコストが下がり、売上も伸びていったのです。

財部:
今のお話を伺うと、同業他社が簡単についてくることができない理由がよくわかります。この国では事実上、レイオフができません。 となると時間をかけて、コスト削減をするしかありません。ところが、大丸さんが手がけてきた改革が、5年、10年をかけて成果を 出してきたと言っても、すぐに他社には真似できませんよね。

山本:
できないと思います。やみくもに人を減らすと生産性が落ちるので非常に難しい。われわれは現場を見て、必要なところには人を入れて、 人が要らないところには要らないと言っているのです。例えば、当時、お取引先が中心になって販売している売場に、当社の販売の 専門職に位置づけられるような人が便宜上数多く配置されていました。販売する現場を持たない部署にスペシャリストがいたのです。 そういう矛盾を取り払い、自分たちで仕入れを行い、自分たちで商品を売る現場に再配置し、「ここで頑張ったらいいのではないですか」 と適材適所を試みました。

財部:
能力のある人が収益を生まない場所にいたのですね。

山本:
はい。一方で誰でもできる単純業務は集約統合しました。婦人服部、紳士服部、家庭用品部、商品部と、商品カテゴリごとに、 それぞれが発送業務とか検査とか伝票整理など同じような仕事をやっていました。これをバックヤードで集約してアルバイトに やってもらったら人件費が大きく下がりました。仕事に支障がなく、それぞれの仕事に専念できる。 営業改革が非常にうまく回り出したので、2003年に大丸札幌店がオープンする時、「このやり方でやってみよう」ということになりました。 新規出店ですから、あるべき姿の要員構造でスタートできます。バックヤードでやるべき仕事はバックヤードに任せ、部門も集約して 部長の数も減らしたところ、初年度から利益が出たのです。

財部:
やはり、そういうものなのですか?

山本:
普通は出るはずがありません。通常は5年や10年はかかるのですが、札幌店は初年度から黒字だったのです。

財部:
先日ある経営者が雇用規制論議に触れ、「この法体系の中でも、時間をかけながら社員を説得しながらやれば、人員の合理化はできる。 それを規制のせいにして『コストが高い』と、経営者は文句を言うべきではない」と話していたのですが、まさに同じですね。

山本:
私も同じ意見です。レイオフができたら簡単ですが、それは間違っているのではないでしょうか。駄目だったら(人を)切ってしまえばいい という判断で済むので、経営者は無駄があっても注意しなくなると思うのです。簡単に人を切れないから、問題点や課題について、 どう工夫しようかと考える。そういう知恵を出せないと、いくら(雇用規制が)緩和されても、私は駄目だと思います。 もっと違うところにまた無駄が出てきますから、常に働いている人たちの生産性が向上しているのかということに注意して いなければなりません。私は営業改革推進部長を務めていた時、ある売場の販売員にお礼を言われたことがあります。

財部:
そうなんですか。

山本:
「部長、よくやってくれました。私はセールスエキスパート(販売係長)ですが、今回の改革で、販売する場所のない部署から 販売できる部門に異動できたのは本当に嬉しいです」と。やはり販売が好きで百貨店に入り、販売したいと思っているのに できなくなっている人たちの生き甲斐についても考えなければなりません。ポジションを変えて本当に必要なところに必要な 人をダイナミックに動かし、活躍してもらうという考え方を、経営は持つべきです。

「お客様がわざわざ足を運びたくなる」百貨店

財部:
これから、松坂屋銀座店跡地の再開発事業や松坂屋上野店南館の建て替えといった大きなイベントが続きますが、 それに対する考え方は、今のお話の延長線上にあるのですか。

山本:
原点はそこから来ています。営業改革の延長線で3年前から「新百貨店モデル」を提唱してきました。これは、百貨店の課題である、 マーケット対応力の強化とローコストオペレーションへの構造転換を実現し、「お客様がわざわざ足を運びたくなるような、 魅力的でかつ収益性の高い店舗」を創造することを目的としています。マーケット対応力を強化するには、お客様が本当に 必要としている商品やブランドが入っていなければなりません。お客様が本当に必要とするブランドということなら、 ユナイテッドアローズさんを入れても、ユニクロさんを入れても良いのではないか。ポケモンセンターさんもありではないか、 と発想したわけです。