J.フロントリテイリング株式会社 代表取締役社長 山本 良一 氏
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百貨店の名前をつけなくてもいい。まったく新しい業態を創る

J.フロントリテイリング株式会社
代表取締役社長 山本良一 氏

財部:
最初に、アシックスの尾山基社長とのご関係からお伺いしたいのですが。

山本:
アシックスさんは当社の重要な取引先です。同社は本社が神戸で、大丸も大阪でしたから、 尾山さんとは半期に1回はお会いして、情報交換をさせてもらっています。尾山さんは 大学時代にバスケットボールをされていました。たまたま私も明治大学でバスケットボール部に 所属していたのですが、彼は私のことをよく知っていて、バスケットの話もよくしています。 私は、バスケットを始めた頃からオニツカタイガーのシューズを履いています。先輩やOBの中でも アシックスに入社した人が多くいます。学生時代は、商品開発中の靴をサンプルでいただけたのです。 「履き心地が良かった」などの回答をアンケートにきちんと書いて返却すると、新しい靴がもらえました。

財部:
そうですか。私は今日、山本さんにお目にかかるのを楽しみにしていました。百貨店というジャンルは もちろんですが、スポーツと経営というテーマに興味があるのです。特に日本を代表する総合商社などが、 体育会系の学生が持つ資質や潜在能力を見ていて、確実に採るわけです。私も第三者として数多くの 経営者を見ていますが、体育会系出身の優秀なビジネスマンがたくさんいます。ただ社長になることは 非常に少ないですね。もう亡くなられましたが、元ラグビー選手の宿澤さん(元・三井住友銀行専務の宿澤広朗氏)がいらっしゃいました。

山本:
宿澤さんは早稲田大学のラグビー部で活躍し、三井住友銀行に入行したのです。大阪に来ていた頃は、 よく私のところに立ち寄ってくれて、話をしていました。1973年卒業で、年代も一緒です。

財部:
そうですか。私は宿澤さんが体育会系のリーダーとして、初めて日本の大企業のトップになると思っていたのです。 そのあと、山本さんがこの伝統ある百貨店のトップになりましたが、これが体育会系で社長になった最初のケースで、 しかも13人抜きですよね。

山本:
52歳でしたからね。

財部:
体育会系で本格的なスポーツをやってきた人が、そこで得てきたものと、会社の論理は同じだと言うこともありますが、 私は同じところもあれば違うところもあると考えています。会社組織では他人の足を引っ張る話がよくありますが、 体育会系のチームではそれほど、足を引っ張ることはないのではないでしょうか。全部が全部そうではないと思いますが、 ある意味で体育会系は「良心の塊」のようなところがあると、私は感じているのですが。

山本:
単純明快なところがありますからね。外からは比較的綺麗に見えますが、足を引っ張るとは言わないまでも、 スポーツの世界でもそれなりのことはありました。皆クリーンで一生懸命にやっていても、中に入ったら競争で、 「あいつに負けてはいけない」とか「あいつが試合に出たら自分は出られない」という関係がありますから。 それはやはり厳しいですよ。

「1番」になることの重み

財部:
今、非常に抽象的に、スポーツと組織、企業という言い方をしましたが、もう少しリアリティをもって話すと、 ある方は、目標を立ててそれを実現することの大切さを強調しています。

山本:
そこですよね。私がスポーツをやってきた中で、また今の仕事の中で、「目標」の大事さを嫌というほど感じました。 私は大学2年、3年、4年生の時に全日本学生選手権を獲っています。インターカレッジですから、学生ではナンバー1です。 私は4年生の時に主将を務めましたが、1年前、2年前に優勝しているので、その年にも絶対に優勝しなければなりませんでした。 われわれは「1番以外はいらない。2番、3番、4番、最下位も一緒。1番にならければ絶対に駄目だ」と、 いつも監督やコーチに教育されていたのです。

財部:
とにかく1番になる。

山本:
1番になることは本当に苦しいものです。だから私は「やたらとサービス日本一と言うな、そんなに簡単にできるものではない」 と話しています。日本一とは、死ぬ思いで練習し、試合で頑張ってきた、本当に優れた能力を持つ人たちが寄り集まって頂点を極め、 さらにその上を行くわけですから、そう簡単に言えるものではありません。それなりの訓練や練習をして勝ち得るものだから、 そう簡単にはできないことなのです。ただし、「目標を持てば叶う」というのが私の信念です。われわれは 「日本一にならなければいけない」と、その当時教育されていましたから、そのために自分は何をするのか、主将として何をするのか、 あるいはチームでリーダーシップをどう発揮するのかということを、常に考えていました。

財部:
その当時の経験が、経営にも活かされているのでしょうか。

山本:
こまめにミーティングを行い、「今日の試合はどうだった?」「明日の試合はどう戦う?」「今日の練習はどうだった?」 ということを皆と話し合い、皆が納得するような練習の仕方で試合に臨み、勝つ。それが非常に勉強になりました。 当時は経営学も学んでいませんでしたが、「とにかく勝たなければならない時に、自分は何をしなければいけないか」 ということは非常に真剣に考えましたし、練習には絶対に手を抜かず、限界一杯までやりました。よく冗談で話すのですが、 練習が終わったあとに、「今日も生きていた」と言うくらい練習しているので、勝ち得るのです。 日本一の座とはそれほど難しいものです。

財部:
そうですか。

山本:
でも、そういう目標があるからこそ戦うことができ、トップの座にも就いたらわかるのです。 日本一や1番の素晴らしさや満足感、充実感というものを。それらは1番と2番ではまったく違いますし、一生続くものです。 今でも自分の心の中には日本一になった時の満足感や充実感がいまだに残っていますし、それをもう一度味わいたいがために 「百貨店でナンバーワンになりたい」とか「小売店でナンバーワンになりたい」という思いがふつふつと沸いてくるのです。

財部:
そこが私の1番興味のあるところです。私自身もスポーツが非常に好きで、中学時代にオニヅカタイガーのスパイクを履いて、 陸上競技をやっていました。100メートルでは東京都で1位、リレーは全国1位になりました。でも、そのあとにつくづく思ったのは、 何かで頑張って結果を出しても、それを継続していくことは非常に大変だということです。同じことを、今度は取材者の目で見ていくと、 スポーツで素晴らしい活躍をし、リーダーシップを発揮した人が、社会人になって素晴らしいリーダーになっているかと言うと必ずしも そうではありません。日本一になったという経験値なり成功体験が、その後の人生に反映されていない人も数多くいます。 そこには、どんな違いがあるのでしょうか。

山本:
自分自身では、就職して仕事を始めてからもベストを尽くすということについては、何も変わっていません。 中学、高校、大学4年間をスポーツの世界で生き、日本一を目指してベストを尽くしましたが、私の場合はそこからガラリと切り替えて、 スポーツを一切やめました。大学入学後、4年生以降はバスケットと縁を切るつもりで4年間専念し、社会に出る時には100パーセント 切り替えて、仕事の世界できちんとやっていくと決めていました。

財部:
かなり前から、そう決めていたのですか?

山本:
大学1年の夏頃から完全に切り替えました。正直言って私が明治大学を選んだのは、オリンピックに出たかったからです。 高校の時に国体で優勝し、どの道を歩んだらオリンピックに出られるのかを考えたのですが、明治が指導者も良く選手も揃っていました。 そこで活躍できれば可能性があると思ったのです。ところが実際に大学のバスケット部に入ってみると、 全国から実力者たちが多数集まっていて、自分の体力や体の大きさ、身体能力を総合的に見ると、 「これでは職業としてバスケットをやるのは難しい」と感じました。そこではっきり自分の技量がわかったので 「大学4年間はベストを尽くして燃え尽きるぐらいにやろう、そのあとは仕事に専念しよう」と割り切ったのです。

財部:
そのキャリアからしても、山本さんが明治大学を卒業する時には、おそらく就職しようと思えばどこにでも行けたのだろうと思います。 なぜ、大丸を選ばれたのですか。

山本:
1つは、私は商学部でしたから商業や小売の面白さ、つまりお客様のことを考え、お客様に情報を伝えるためには、 どんな接客やマーケティングをしなければならないかということを、授業で多少かじっていました。人を喜ばすとか、 人のために何かをやるということが、自分には向いていると思っていたのです。その選択肢として小売や商社を考えていて、 百貨店も1つの選択肢でした。自分でも商店経営をしたいという気持ちがあったのですよ。

財部:
頭の片隅には、どこかで独立したいという気持ちもあったのですか?

山本:
そういうものもあったでしょう。商売の面白さというものも知っていましたし。でも百貨店の水が合った、相性が良かったのでしょうね。

財部:
百貨店業界についてこの2、30年を振り返ると、バブルの時代にかつてない拡大期があり、それが終わったとたんに15年連続減収減益です。 そういう業界はなかなかありませんよね。

山本:
ないでしょうね。

財部:
市場規模もピーク時は約10兆円に達しましたが、今は6兆2千億円弱です。これも凄い話です。その中で各社の統合が進み、 J.フロントリテイリングも設立されたわけですが、山本さん自身は、ここ約20年の動きをどのように眺めてこられたのですか。

山本:
バブル期は、高いものを置けば売れるという時代でした。私が入社してからバブルに至るまでの経緯を見ると、 結局、われわれはお客様の変化を感じずに商売をしてきたという気がしているのです。そんなに難しいことを考えなくても、 お取引先の方たちが商品を供給してくれる、それをうまく展開すれば、お客様のニーズはいくらでもあるから売れていました。 本当の意味でお客様が何を求めているのかをリサーチしたり、店頭で情報を集めたり、苦労してお客様の変化を知ろうとしなくても、 商品を置けば売れてしまった。われわれは「お客様志向、お客様第一」と言いながら、結局何もしてこなかったのです。

財部:
そうですか。

山本:
お客様のニーズが多様化する中で、スーパーやGMS(総合スーパー)が台頭し、SC(ショッピングセンター)やコンビニエンスストアも できるなど、業態間の競合は激しくなってきました。百貨店は、競合が激しくなり、お客様のニーズがつかめない中で、 どんどん落ちていったのです。そして、私は社長になる前から、当社はコストがかかりすぎている会社だと思っていました。

財部:
たとえば、どんなところがですか?

山本:
私は売場にいた頃、家庭用品を担当していました。忙しい時にアルバイトを採用するのですが、たとえば承りの伝票の書き方や レジの入金の仕方をアルバイトに教えれば、2日目から戦力になります。アルバイトでもできる仕事を、なぜ人件費の高い社員で やっていかなければならないのかという矛盾をはらんでいました。あまりにも良い時代を経たために大量採用を続けていました。 このようなコスト高の要因を持ってバブル崩壊を迎えてしまったのです。アルバイトを売場にもっと置いて社員の数減らしたら コスト下がるとずっと思いながら仕事をしていました。私はそういうことを、現場にいる時に強く感じていました。