ユニ・チャーム株式会社 代表取締役 社長 執行役員 高原 豪久 氏
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ユニ・チャームの製品で世界中に共生社会をつくりたい

ユニ・チャーム株式会社
代表取締役 社長 執行役員 高原 豪久 氏

失敗でも成功でも、過去のものはあまり役に立たない

財部:
私が若い頃、お父様(創業者の取締役ファウンダー・高原慶一朗氏)が社団法人ニュービジネス協議会(現・東京ニュービジネス協議会)の会長をしておられた時に、2度ほど取材させていただたきました。その当時すでにユニ・チャームさんには相当な存在感があり、なぜ高原さんがニュービジネス協議会の会長なのかと私は当初違和感を持っていたのです。

高原:
あの頃はCSKの大川さん(故・大川功元CSK会長)などもいらっしゃいましたが、今の方がわりと文字通りの協議会になっているような感じがしますね。

財部:
そうですね。今日は楽しみに参ったのですよ。私はこれまで新興国戦略を山ほどリポートしてきましたが、なぜかユニ・チャームさんだけはご縁がなかったのです。

高原:
そうなんですか。

財部:
はっきり申し上げて(日本企業の新興国戦略の)8割は失敗です。日本企業の海外進出は現地のニーズにほとんど合っておらず、マネジメントもみな東京でコントロールしようとして失敗し、2、3年で撤退を余儀なくされています。新興国の人たちはモラルが低いわけではありません。「この(日本人)上司は何もわからない」「現地語はもちろん英語も怪しい、来年帰ってしまう、次に来る人もおそらくわからない」となれば、自分の働きが長期間にわたって正しく評価されるのか疑心暗鬼になります。そうなると会社にロイヤルティーを持つよりも(商品を)横流しするとか2重帳簿を作って、お金を懐に入れてしまう方が、(彼らの)人生としては合理的なのです。私は合理性が、新興国の人たちの最大の行動原理だと思っています。(新興国の人たちから)合理的にロイヤルティーを持たれたところが非常に良い会社になるというのが、長年の第三者的観察の結果で得たものです。ユニ・チャームさんはなぜ、このようなことができたのかということを、本日はお伺いしたいですね。

高原:
何をもって成功というのかという議論もありますが、海外展開を行ううえで、商品を持っているメーカーはサービス業にくらべてアドバンテージがあります。四の五の言わずに、それこそ現地の言葉がわからなくても、モノを見せたら大体わかってくれます。

財部:
その点で言うと、現地でモノを作って販売し、代金を回収して収益を上げるというビジネスモデルにおいて、日本企業は先進国ではそこそこ成功していますが、新興国では、日本で最高だと思われているグローバル企業でさえ、ほとんどグローバル性がないということを現実が証明しています。私の実感で言うとヤクルトや味の素といった食品系のメーカーが強く、なかでもヤクルトは1本数10円という価格の安い商品を売っていて、そうなると現地化は当たり前、最高の技術があることも当たり前。でも予備知識のない(現地の)人はヤクルト菌とは何かがわからないから、そういうことも教えていく。「味の素」に至っては(現地の人たちは「うま味」の)概念すらない。ですから、現地の人にとって未知の商品を売る商売をしていく会社は(現地の人たちと)コミュニケーションをしなければ成り立たないし、販売店と信頼関係を築くために社員は現地化し、そこに住まなければなりません。そういう必然性があって新興国ビジネスが成り立っているのですが、そうではない会社は、日本社員の現地化がほとんどできていません。ユニ・チャームさんは、製造業と食品系の中間ぐらいのポジションで、独自の世界観を作られているような気がするのですが。

高原:
食品メーカーも、われわれのような日用品メーカーも、そこに住んでいる人の習慣や価値観を変えなければならないという点では、おそらく同じだと思います。それでも、われわれ日用品メーカーの方が食品メーカーよりも多少手間がかからないのは、紙おむつも生理用品も少なくとも代用品は現地にあるものです。昔、日本でもコットンの布が(生理用品の)代用品でした。そういうものと比較して格段に良いものを作れば良かったのです。われわれは、元々ある商品をかなりドラスティックに改良すれば、むしろ比較対象があるので、そこに住んでいる顧客の心のカベを越えることができます。でも(比較対象が)まったくないものを初めて導入するのは、相当難しいと思うのです。

財部:
中国で取材した時、ある醤油メーカーが最初苦戦をしていたのですが、その理由として「似たような商品があるとなかなか辛い」と話していました。これは間逆の理屈で、ある種の言い訳でもあるのですが、全く違う新しい価値観を示して「いい商品だ」となると市場には受け入れられやすい反面、醤油のように現地のブランドがあって、慣れ親しまれている商品があると「(日本のものは)なぜこんなに高いんだという話になる」という理屈をおっしゃっていた方もいたのです。

高原:
なるほど。

財部:
その両方のアプローチがあると思うのですが、私が高原さんにぜひ伺いたかったのは、たとえば味の素などでも、相当長い歴史の中で失敗を繰り返していて、失敗の蓄積の上に(海外戦略が)できあがっているわけですね。当たり前ですがユニ・チャームさんにも相当ご苦労があったと思いますが、比較的短期間のあいだに結果と知見の集約ができていて、「今、海外進出はどう行うべきなのか」と聞いた時、高原社長のブログ(日本経済新聞ホームページ「高原豪久氏の経営者ブログ」)ほどコンパクトに海外進出のノウハウをまとめたものはないと思いました。これほどの短期間で、なぜここまで集約できたのでしょうか。

高原:
われわれにも失敗がないわけではありません。ですがいろいろ経験した中で、失敗でも成功でも、過去のものはあまり役に立たず、そこから学ぶことはあまりないと考えています。やはり今起こっていることが大事だと思います。と言いますのは、見るからに当たり前のように失敗するケースは別として、その時点で各社さんも、われわれもベストの計画を立てて実行する。その結果について学ぶと言っても、過去のさまざまな条件を全部ワンパッケージで再現することができなければ、それを有効的に活用することは不可能です。一部だけを活かしても決してうまくいかないと思います。

財部:
なるほど、過去の成功体験は役に立たないと言い切った経営者は初めてです。

高原:
調子に乗ってはまずいという意味で、過去は戒めにしますが、「これから(自分たちは)どこに行こうか」「これからどんなことが起こるのか」ということについては、足元で起こっている事柄を見て想像します。昔はこうだったああだったとか先輩方たちは言いますが、状況はどんどん変化しています。それよりも、今あるお客さまを訪問したり、お店をまわったり、工場の現場も行って、今起こっていることを肌で感じるほうが有意義だと思います。われわれが海外に経営資源を投入し始めた頃は、いわゆるバブルがはじけて、企業経営が選択と集中に向かいました。その時点でIT技術の進化やグローバル化競争は予想できました。少子高齢化についても当時から言われていました。人口統計ほど精度が高く、将来を予言するものはありません。アジアの経済力の発展も、スピードと質は別にして、ある程度はわかります。加えて、IT化およびグローバル化の進展にともない、情報のコストも安くなっています。これからは、技術の進化や流通の変化、顧客の嗜好の多様化といった重要なファクターが、どういう影響を与えるのかを予測する競争ではないかと思っています。結果論ですが、それが的確に予測できれば商品が当たるし、海外進出した地域の業績がそこそこうまくいくと考えています。結局、どこで戦うかどう戦うかということを考え続けるというわけです。

財部:
高原社長のインタビューや記事をいろいろ拝見して、僭越ながら私は、自分の情報の取り方や受け方と非常に共通項を感じました。多くの人が間違えるのは、高原社長の言葉で言うと「トレンド」です。口では皆同じことを言っているのに、本気でそれを受け止めていない。5年前は少子高齢化、15年ぐらい前からは新興国だと言っていたのに、リアリティを持てないでいる。

高原:
そうですね。

財部:
私は今まで批判的に日本企業の海外進出を見てきたのですが、高原社長のブログを拝見して、「ここには真実がある」とつくづく思いました。高原社長は高校生の時に一度海外に行かれていますが、こういう経験が、自分の頭で考え、すべて自分で判断をしていくというベースになっているのではないでしょうか。

高原:
大きなきっかけになったと思いますね。

財部:
どういう経緯でアメリカに行かれ、どんな生活を送ったのですか?

高原:
高校2年の時に1年間、ですから今から30年以上前に1人で渡米し、地元の高校に入りました。当時はサンフランシスコといえども、アジア系というと中国の移民の方か、商社や銀行の駐在員の方が多く、私が通った学校には日本人は私しかいませんでした。10代後半の多感な時期でしたから、1人で突っ張っていました。学校の授業に出ても分かるのはアラビア文字で書いてある数学だけとか、格好良く言えばホームステイはしていましたけど、とげとげの鎧を着て、サバイバルしていた感じです。人種差別もありましたし、12月8日には真珠湾のビデオを見せられたりもしました。その時に、俗っぽい言い方ですが、日本人としてのアイデンティティに目覚め、日本の歴史とか近代を学ぶきっかけになりました。向こうでは自分のアイデンティティをバックに置いて話をしないと認めてもらえません。そういうことを含めて、自分の人生にとって非常に密度の濃い時間を過ごしました。

財部:
それが強烈な原体験になっているのですね。

高原:
そうだと思います。銀行で5年間経験をさせていただいたときも、多少英語が好きだったものですから、同じようにカリフォルニアのロサンゼルスに行かせてもらいました。

財部:
それはご自身でいかれたのですか。お父様に言われたとかではなく。

高原:
中学高校は全寮制の学校(横浜市・山手学院)で、父に放り込まれました。今、自分たちの子供を見ても中学1年生といえば本当に子供です。それが1人で寮に入って生活するわけで、いわゆるイギリスのパブリックスクールのような環境ですね。いろいろなメニューを学校が出してくれて、その中にあったのが留学制度。留学はマストではないので希望者が行きます。私たちの同期も入学時は約120人で卒業時は80数人でしたが、その中で留学をしたのが20人弱で、それほどマジョリティではありませんでした。

財部:
(留学をした人たちは)それぞれ別の学校に行っているのですか。

高原:
そうです。私たちの世代の親は、子供の教育なんて基本的には学校に任せっ放しか、あるいは思い付きのようにやっていた気がしています。ご存知の通り、私は愛媛県の田舎の生まれで、小学校生活の半分を四国で過ごしましたから、そのような教育の制度について聞かれてもわかりません。でも節目節目の経験については、結果的に自分で決める自由を与えられてきたのは事実ですね。