日本発のおもちゃとコンテンツを、自信をもって世界へ発信していく
株式会社タカラトミー代表取締役社長 富山 幹太郎 氏
財部:
最初に、オリエンタルランドの上西京一郎社長とのご関係についてお聞かせ下さい。
富山:
当社は、東京ディズニーランドの開園時からずっと続いているスポンサーの1社で、上西社長とも親しくお付き合いをさせていただいています。昭和30年、先代社長の父が始めて渡米した時ディズニーランドを訪れ、ディズニーのスケールの大きさやデザインの美しさ、パークで出会った人々の楽しそうな様子を目の当たりにし、尊敬と憧れを抱き続けていたようです。おもちゃを通じて世界の子どもたちに貢献するという私たちの理念と、ディズニーの哲学に共通の想いを見出したのだと思います。日本にディズニーランドができるという時に、オフィシャルスポンサーに名乗りをあげさせていただきました。
財部:
具体的には、何のアトラクションのスポンサーをされているのですか。
富山:
東京ディズニーランドでは『ウエスタンリバー鉄道』という機関車、東京ディズニーシーでは『ディズニーシー・エレクトリックレールウェイ』という、高架を走る路面電車です。
財部:
あれは御社だったんですか。タカラトミーさんと言えば、『トミカ』は昨年で発売40周年を迎えましたね。
富山:
おかげ様で親子二世代に愛される商品となっています。
おもちゃは当たると大きいのです。その最たるものが任天堂さんで、『DS』や『Wii』のプラットフォームがここまで普及しました。まさに歴史的な大ヒット作品ですね。
財部:
アップルの『iPhone』もそうですが、根本的な技術革新で、ここまで急激に市場が変化してしまうのは、ある意味で恐い部分があります。
富山:
他の産業でもそうだと思います。玩具業界でも、戦前はブリキ製などの金属玩具が主流で、大手の担い手がいました。ところが彼らはプラスチック玩具が出てきた時に、対応が大きく遅れました。その頃、父は30歳そこそこでしたが、プラスチック玩具にいち早く転換し、大きく業績を伸ばしたのです。
財部:
素材によっても、かなり規定されてしまう部分があるわけですね。
富山:
おもちゃの開発設計・生産設備は、金属とプラスチックでは全然違いますから、昔の職人さんでは役に立たなかったのです。おそらく、自動車のエンジンの構造がキャブレタ―(気化器)方式からインジェクション(燃料噴射)方式へと変わった時に、対応が難しかったのと同じです。
財部:
以前、BS日テレの「財部ビジネス研究所」という番組で、現代版ベーゴマの『ベイブレード』に初めて触りました。もちろん私も子供の頃にベーゴマをしましたが、たとえ形は変わっても、コマを回してぶつけて勝負するという本質は何も変わっていないような気がします。
富山:
面白いことに、おもちゃが金属からプラスチックに変化した時も、表現の媒体が変わっただけで、機関車や車、飛行機を作るという原点は全く同じです。
財部:
なるほど。媒体が変わっただけだ、と。
富山:
ええ。だから金属で表現するのかプラスチックで表現するのか、今度はテレビの中で表現するのかという違いだけで、遊びそのものの本質は意外に変わっていません。それから先ほど言いたかったのは、日本の携帯電話メーカーは、『iPhone』に含まれる要素をすべて持っていたということです。
財部:
スマートフォンに使われるタッチパネル技術も、日本が古くから持っていましたね。
富山:
それでいて、アメリカ人は時々凄いことをやるんですよね。
財部:
そうですね。たとえばグーグルの『Gmail』は、今や世界中で1番多く使われている無料のメールサービスです。技術的には、サーバーの大容量化と低価格化が進んだ結果、同サービスが実現したわけですが、日本人は非常にモノにこだわる傾向がある。ハードディスクの大容量化に関して、ひたすら努力をして計算を行い、結果を出しますが、それを利用して『Gmail』のようなサービスを作り上げることがなかなかできません。その一方で、タカラトミーさんを始めとする玩具メーカーが作り上げてきたおもちゃの世界が、何十年という時を越えて、連綿と続いているのは本当に凄いと思いますね。
富山:
先ほども言った通り、おもちゃは当たると大きいのです。でも、なかなか当たらない。1000個の商品の中で3個しかヒットが出ないと言ってもいいぐらい、当たらないことが多いですね。
財部:
1000個の中で、たった3個ですか。
富山:
当社も去年、新製品を約1300アイテム出しましたが、おそらく上位100アイテムぐらいで全売上高の半分以上をカバーしています。それらのヒット商品はある意味で「付加価値の塊」とも言えますが、子供が「格好悪い」と言って、タダでも持って行かないような駄目な商品もあるかもしれません。そういう意味では、子供は本当に残酷ですよ(笑)。
「捨てる」ことで手にした経営の自由度
財部:
富山さんは社長になられた頃、非常に苦労されたそうですね。
富山:
私は3代目ですが、1985年の「プラザ合意」の前に経営危機が起こり、工場閉鎖などのリストラを断行し、86年に社長になりました。当時、「going concern」(企業の存続可能性)と言われる命題があり、本当に大変だと思いながら25年が経ちました。
財部:
あの頃、4つの工場のうち3つを閉鎖するというのは、とても考えられないような経営判断でした。しかし、富山さんはそれをやり、危機を乗り切り、その後何度も山や谷を経験してこられました。その間、御社の持つコンテンツに変化もあったと思いますが、「おもちゃが人間に与える価値」という、極めて人間的な要素をずっと大事にしながら、合併も含め、非常に積極的な企業活動を行われています。ある意味で、経営やコンテンツが非常に革新的である一方で、昔ながら≠フものをきちんと守っている部分もありますよね。
富山:
先の経営危機の時にも、「私たちは何を守るのか」と言って父と喧嘩をしました。父は「工場を守りたい、4工場のうち1つだけの閉鎖にしよう」と言いましたが、私は「(残すのは)1つでいい。これから円高もずっと続くから」と主張しました。その後、実際に円高が続きましたが、私たちの会社が経営危機で危なくなった時に潰れないで済んだのは、子供たちが当社のおもちゃを買ってくれたから。したがって、私たちが守るべきは子供たちであり、当社のおもちゃのファンになってくれる子供たちの信頼を大切にし続けることを、選択しなければならないと思いました。
財部:
そうですか。
富山:
工場を残すといっても、「付加価値をつける」と称して複雑なおもちゃを作っていたので、コスト競争力も採算性が悪かったのです。その頃、当社の生産高の半分ぐらいは輸出でしたから、ドル=円レートが200円を切ったら利益がゼロになってしまいます。そこで工場をバサッと切ったのですが、先輩たちは偉いもので、香港やシンガポールにちゃんと工場を造っていました。だから国内工場を閉鎖したあと、すぐに海外にシフトできたのです。
財部:
その時点で、そういう体制はちゃんとあったわけですね。
富山:
はい。当社の工場で作れる商品は限られていましたが、逆に面白いことに、工場がなくなったことで、「どこで何を作ってもいい。お客様に安全を保証できるなら、当社のブランドをつけて出しましょう」と考え方が変わり、商品ラインナップがぐんと広がりました。以前は、工場を持っているがゆえに縛られていましたが、「大事なのは工場ではなく子供たちだ」と発想を転換し、子供の遊びを見てみると「ちょっと遅れているぞ」という部分がカテゴリーとして数多くありました。だから今、そこを攻めていこうとしているのですが、それがいわば「失って初めて得られる自由度」であり、あの時の大きな変化ですよね。
財部:
そういう経験の中で、「捨てることも大事だ」という認識につながってくるわけですね。
富山:
「捨てる」ぐらいの覚悟で本当に変えないと変化は起きないし、「工場があるから、それを活かさなければならない」と言っていたら、いつまで経っても変化のスピードは上がりません。しかも、単純に何かを捨てればいいというものでもなく、「これを得るには、こちらを捨てなければならない」という、トレードオフの関係にある事柄が、途中でいくつも出てきます。