「IoT」は日本の産業にとって大きなチャンスになる
インテル株式会社代表取締役社長 江田 麻季子 氏
財部:
今回ご紹介いただいたモンシェールの金姉妹とは、どんなご関係なのですか。
江田:
妹さんの春花さんが、私の前任者の吉田(和正前社長)の奥様でした。
財部:
ご結婚されたのですよね。
江田:
モンシェールさんはアジア展開もしっかり行われていて、上海や香港でも時々お会いしていました。私は就任以前の3年間、香港オフィスでアジアの仕事をしていたのです。モンシェールさんは香港にもお店を出されていますが、オープニングパーティーにも呼んでいただきました。そういうつながりです。
財部:
江田さんは早稲田大学で社会学を専攻したあと、アメリカに留学されています。それも、親に頼らず奨学金制度を活用したということですが、あの当時、女性が自力で留学をするというのは、あまり一般的ではなかったですよね。
江田:
そうかもしれません。私は東京出身で、大学も自宅通学でしたから、独立したいという気持ちがとても強かったのと、大人びていたのでしょう。日本人がいない田舎に留学したのですが、今考えたら絶対にできないようなことをやりましたね。若い頃の恐いもの見たさというか、冒険のような感じです。
財部:
よく、そういうところに1人で行って就職したものだと思いますね。
江田:
今思えばそうなりましたが、当時は「ここまでやってもし駄目だったら、やるだけやったと思って(日本に)帰ろう」と常に考えていたのです。本人は必死でしたが、それほど格好良いものではなく、それでも面白いと思っていました。あの頃、女性でもそういう開拓心がある方がいらっしゃいましたよ。バブルの時代で、就職には困ることなく、仕事はいくらでもありましたが、「1回の人生だからもう少しチャレンジしてみよう」という人は他にもいましたし、そういう人が言うのなら「私も行っても大丈夫かな」と軽い気持ちで渡米したのです。
財部:
そうですか。「経営者の輪」の掲載が近いところで言うと、最近サントリーの社長になった新浪さんも資生堂の社長になった魚谷さんも留学組で、海外で非常に苦労されていますが、基本的に日本の経営者の留学経験は会社がバックになっているものです。ところが江田さんはご自身で(キャリアを)切り拓いていて、そこが素晴らしいと本当に思いました。江田さんは、小さな頃からそういうところがあったのですか。
江田:
今たとえば高校の時の先生や大学の同級生と会うと「こうなるとは思わなかった」と言われることが多いので、実は少々大人しかったようですね。切り拓くと言うより、面白いほうがいいじゃない、と思うところは少々ありますが。
財部:
ご自身としては、切り拓くというイメージではないわけですね。
江田:
切り拓くと言うか、単純に前例がないことをやるのは面白いと思います。私はそれほど成績優秀ではないので、自分のバリューは何かと考えた時、人と少し違うことをやってみたほうがいいのではないかという計算もあります。面白そうなことや興味を持てることでなければ、自分の力を発揮できないと考えているので、興味を持ったことを、とことんまでやってきたという部分はあるかもしれません。
財部:
江田さんは、過去のさまざまなインタビューで、大学で社会学を学んだ話をしています。自分自身もいい加減な人間で、大学でどれだけ勉強したのかわからないような過去もあるので、江田さんの人生を決めたものが、本当に大学で学んだ社会学だったのかを聞いてみたいと思ったのです。
江田:
私は、自分がいろいろなことに興味があるということを認識していたので、ちゃんと勉強するなら、その中でも特に自分が興味を持った学科にしよう、そういう勉強がしたいと高校生の時から思っていました。
財部:
そういうところに、人生を切り拓いていく素地のようなものがありますね。
江田:
そうかもしれません。女性の場合、たしかに制服を着れば就職の機会はありました。男女雇用機会均等法時代で、就職口はいくらでもあるのですが、一人前に扱われる仕事がそれほどなかったのです。当時はバブルで金融業界が花盛りで、証券会社などの採用が数多くありましたが、よく聞いてみると「制服が支給されます」という話で、「あれっ、総合職はないのですか」ということは多かったですよね。
財部:
女性はまだそういう時代でしたね。
アメリカで築き上げたキャリア
財部:
江田さんはアメリカに留学し、アメリカで働こうと最初から考えていたのですか?
江田:
働けるかどうかはわかりませんが、働けてしまったら面白いだろうなと思っていました。アメリカで大学院を修了する時、6か月間だけ企業で働けるというビザがついていて、働かないのはもったいないと思ったのです。大学4年生の時に一度就職活動もしてみたのですが、その時の感触とは大きく違いました。アメリカでは、新聞の求人広告に丸印をつけながら、めぼしいところに履歴書を送ってインタビューに入れるかどうかという形で就職活動をしました。そのプロセスを通じて「自分が一人前に扱われるのだ、新卒で大学を出るときとは全然違うではないか」と思いました。私は大学院で学んだことを活かした仕事がしたいとアピールしていましたから、自分にスキルがあると評価されることが非常に嬉しかったですし、そういうところで腕試しをして、自分を鍛えてみようと考えたのです。
財部:
なるほど。アメリカで社会学修士号を取得されてから、地元の病院にお勤めになりますが、それはどんな理由だったのですか?
江田:
アメリカ人を募集しているところに行きたかったのです。その頃、ニューヨークだと日本人枠が数多くありました。受付嬢なのですが、日本人枠で行くのもどうかと思い、別に日本語を使わなくてもいいので、アメリカ人を求めているところに行きたいと考えたのです。社会学を学ぶ中で統計学を修めていますから、市場調査のスキルはあります。そこで市場調査、マーケットリサーチの仕事を探したら、たまたまペンシルバニア州のトーマス・ジェファーソン大学病院が見つかったのです。同大学病院があるフィラデルフィアは、医療系や製薬系が一大産業で、そういう街で募集していたので応募しました。メディカル系の仕事は、今のインテルにも通じるところがあるのですが、事業以上に社会的な意味において存在意義があります。そういうところで一から教えていただいたわけですが、私は市場調査はできても英語はネイティブではありません。その頃はEメールが普及する前だったので、メモの書き方から叩き込まれました。ありがたいことです。よく日本人の私を採ってくれたと思いましたね。
財部:
その段階で、実際にご苦労はあったのでしょうけれど、語学を含めて、働き手として成り立つ実力があったということですよね。
江田:
どうでしょう、お給料はいただいていましたが、やはり「私は大丈夫かな、アメリカ人ではないから駄目なのかな」という思いは常に頭の中にありました。英語のメモなどに朱が入ったりするのです。それを見て「そうか、こういう言い回しなのか」と学びながら、アシスタントがつき始めて、だんだん普通に仕事ができるようになったような気がします。ありがたいですよね。当時、私を雇ってくれた人たちや鍛えてくださった人たちには、今でも感謝しています。
財部:
その間に、挫折体験のようなものはあったのですか。
江田:
最初の約3年間は本当に、毎日挫折を味わっているような気分で、「私はやはり駄目だな」と思っていました。ただ、統計のコードを書いたり分析をしたりすることは、他の人には誰もできなかったのです。だからそこをしっかりやって、できていないところを、毎日叱られながら仕上げていました。私が「やはり駄目だ」などと言うと、「そういう風に取るんじゃない」とまた教えられて。上司だけではなく周囲の人たちも、いろいろなアドバイスをくれました。日本では「女性なのに頑張って働いている」という感覚がありますが、アメリカにはありません。私の職場はほとんどが女性ですから、「女性なのに」という感覚が一切ないわけです。いろいろと突っ込みがあった時には、「こういう言い方で返しなさい」とか「こういうところをフィードバックしたほうが、パーソナルに取られなくて良いのだよ」ということを、実体験で教えてもらいました。その最初の約3年が、今の礎になっていると思います。
財部:
いろいろな資料を見ると、10年のアメリカ生活を終えて帰国し、インテルから声がかかったということになっているのですが。
江田:
マーケットリサーチを自分のスキルとしてキャリアを高めていくという意味では、7、8年経験を積んでいましたので、これでやって行こうと思っていました。その一方で、母の具合が悪かったり、年齢が上がると日本での就職が厳しくなるということも、ずっと頭の片隅にありました。あまりオポチュニティーがないかもしれない。1回の人生なのに、「日本で働いたことがない」と周りから言われるのも癪でしたし、母の近くにもいたかったので、日本に帰ることを、帰国の2、3年ほど前から考えていました。
財部:
具体的にどんな就職活動をされたのですか。
江田:
マーケットリサーチの専門のエージェンシー(代理店)にコンタクトし、履歴書を送りました。日本の会社は無理だろうと思っていたので、外資企業に就職を決めて(日本に)戻ってきたのです。そこでは3年半ほど勤務し、その間にさまざまな業界のお仕事をさせていただいたのですが、その中の1つがIT業界でした。当時は90年代後半ですが、海外のIT企業の日本参入をお手伝いしたことがあったのです。たぶんそこからの話だと思うのですが、ヘッドハンターから電話があって「インテルでマーケットリサーチャーを探しているのですが、来ませんか」という話になりました。それが実情でございます。
財部:
そういうことだったのですね。江田さんが日本に帰ってこられてからインテルにつながるまでのプロセスを、どうしても知りたいと思っていたのです。
江田:
私は90年代にアメリカにおりましたが、ちょうどその頃、インテルの創業者の1人であるアンディ・グローブが「タイム」誌のマン・オブ・ザ・イヤーを受賞したり、ニュースのトップにインテルの話題がたびたび登場していました。アンディ・グローブが『Only the Paranoid Survive』という本を書いてベストセラーになり、よく読んでいたのですが、面白い会社だなと思っていたのです。同書でアンディは「市場ではパラノイド(偏執症者)のみが生き残る」と言っています。「常に敵がいると思い続けなければならない、どんなに成功してものんびりしてはいけない」という考え方だと思うのですが、そこに非常に共感したのです。
財部:
共感することが、そもそもあったわけですね。
江田:
非常に共感したので、インテルから話が来た時に「あのインテルだ」と思いました。インテルというブランドは、私にとってはアンディ・グローブであり、ベンチャー企業からどんなに大きくなっても、常に次の「高み」を求めて努力し続ける会社です。偉ぶらず、のんびりしない会社というのは素晴らしいと思っていたので、真っ先に「インタビューに行きます」と言いました。