株式会社島津製作所 矢嶋 英敏 氏
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財部:
ほお。

矢嶋:
それで、「よしわかった。お前、明日から営業に来い」といわれまして、僕は営業にスカウトされたんです。その時、遊佐さんに「お前、商社にちやほやされていたんだから、ちょっとアフリカに行って売って来い」といわれたんですよ。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
ちなみにその頃、1970年の大阪万博がありまして、カメルーンの大統領が日本に来て、「『YS-11』が1964年の東京オリンピックの聖火を運んだ」という話を聞き、「こういう飛行機がぜひ欲しいんだ」と話したそうなんです。遊佐さんも、「アフリカ諸国の人は非常に純粋で、当時は独立運動などで旧宗主国との関係がギクシャクしているけれど、そんなところに日本の飛行機を持って行けばいいんじゃないか」、という総括的な情報は持っておられたらしいです。

財部:
なるほど。

矢嶋:
それで僕は、一番最初にカメルーンのヤウンデという首都に行きました。ところが、そこは国家予算が百万ドルしかないという国ですから、1機百万ドルの飛行機に国家予算を使うようなことはできない、ということでした。そこでフランスで少し勉強していたら、西アフリカ13カ国で作られたエア・アフリックという会社があり、そこはかなりの規模でエアラインを展開しているということがわかったんです。結果的にいうと、コートジボワールに行って同社と交渉し、3カ月間で3機の契約に成功しました。会社からは「お前は本当にツイている」と褒められましたが、まあ、ツキ以外の何者でもなかったと思いますね(笑)。

財部:
いや、そんなことは(笑)。でも私は、矢嶋さんはその頃、「日の丸飛行機を売りに行くんだ」という、燃えるような思いをお持ちだったと思うんです。「自分の生活のため」という小さな話ではなく、「国のために」というような志を、皆さんがあらゆるところで共有していた時代には、たぶん現在とは決定的に違うものがあると感じますね。

矢嶋:
それはもう、おっしゃるとおりだと思います。さっきお話したように、日本航空機製造で働いていたのは、さまざまな会社からの寄せ集めの人たちで、20代の若い連中が「自分の会社のため」ではなく「お国のために」という考え方でまとまって仕事をしたり、遊んだりしていました。その一方で、戦前や戦中に、零戦などの素晴らしい飛行機を設計された方々が、いわゆる、いまでいうアドバイザリーボードのような形でついていたんです。しかも、設計部門では東条輝雄さんという、つかんだら離さないという根性のあるタイプの方がリーダーを務めていました。通産省や大蔵省からも、かなりの大物が、役員として出向してきていましたからね。

財部:
ほお。

矢嶋:
だから会社全体に、「日本の翼を、日の丸をつけて飛ばそう」という雰囲気がみなぎっていたんです。それを、若い人たちも共有していた、ということなんだと思いますね。

財部:
じつは僕もですね、やはり人は「国のため」や「社会のため」という矜持を持たないと、良く生きることはできないのではないか、と思うんです。もちろん、それは立派で遠大な理想のようにもみえますが、「じつはそんな生き方をした方が、人間としても生きやすいのではないか」ということを、最近非常に感じます。

矢嶋:
「初心を捨てるな」とか哲学的なことをいうよりも、やはり、その環境に何となく従った方がわかりやすいのではないか、という気がしますね。

財部:
「環境に従う」とは、そういう「場」の中に入っていくということですか?

矢嶋:
そうですね。その意味で、私は島津へ入ってからも、盛んに「環境に従う」ということを話しているんです。そこで私自身、やはり「初心を捨てるな」ともいいましたが、口先だけでは、誰もそんな話しについてくるはずがありません。だからこそ上に立つ人が、従業員がその「場」に入れるような環境を作ることが重要だと思うんですね。

財部:
矢嶋さんは日本航空機製造から、島津製作所に来られたわけですよね。その頃の島津製作所という会社は、もともとそういう気風のある会社ではあったんですか?

矢嶋:
いや、ほんとうに申し訳ないのですが、僕は島津製作所という会社を、ほとんど知らなかったんです。たまたま『YS-11』の開発時代に、島津製の「空気調和装置」という部品があったぐらいで――。

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財部:
空気調和装置?

矢嶋:
簡単にいえば、いわゆるエアコンなんですが、飛行機は3次元で動きますから、空気圧力のコントロールもやるわけです。航空機製造事業法という法律で、「島津製作所が空気調和装置をやりなさい、国がそれに対する補助金をつけます」という形でノミネートされていまして。輸入品の購買を担当していた私が、国産品の方の手が足りないということで、たまたま一度だけ島津製作所に行ったことがあるんです。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
じつは、島津から誘われた頃には『YS-11』も製造中止になっていて、私は民間輸送機開発協会というところに行っていました。そんな時、島津製作所から、「自分のところも部品だけれども、ボーイング『757』や『767』の開発の仕事が揃いつつある。でも、そういう製品の輸出をやった経験者がいないので、プロジェクトマネージャーとして、ぜひ来てくれないか」という話をいただいたんです。

財部:
やはり、飛行機に対する思いが、ずっとおありだったということですか?

矢嶋:
そうですね。僕は飛行機しかやったことがありませんでしたから。民間輸送機開発協会では、通産省などと掛け合って予算取りをしたり、世界中を回って有名なフライトキャリア(航空会社)の需要予測をヒヤリングし、ボーイングなどが出している数字と合うか、といった市場調査をやっていました。それはそれで楽しかったんですが、いわゆるマーケティングであってセールスではない。ですから、僕にとってみると、達成感というものがなかったんですね。

財部:
やはり矢嶋さんには、セールスというものが、ほんとうに原点にあるんですね。

矢嶋:
そうですね。ですが、技術畑の人に「仕事をしていて、何が一番嬉しいと思う?」と聞くと、「飛行機がパーッとテイクオフした時」だというんです。逆に、自分たちが作った飛行機が、全日空やアメリカのピードモント・エアラインに売れたということには、あまり感激しないというんですよ。

財部:
そうかもしれませんね。

矢嶋:
でも、僕の場合には契約、注文が来た時が一番嬉しかったですからね(笑)。

財部:
でも、ある意味では、そういうところが島津製作所にピッタリだったということですよね。やはり技術オリエンテッドの企業では、会社自体が本当に「いいもの」を作るところで完結し、それが「売れる」という部分と乖離してしまうというか――。

矢嶋:
そうです。あえていえば、当時の島津製作所は「『いいもの』を作れば必ず売れるはずだ」、と誰もが思っているような技術志向の強い会社でした。ですから悪くいえば、営業にきちんと投資をしていないというか、営業マンを、いわゆる狭義の意味の業務屋さんとしか考えていなかったんです。ある意味ではね――。

創業後初の赤字、そしてノーベル賞

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財部:
それにしても、新卒で普通に入社し、普通に社長になるという場合でも、やはり社長になる人には、本人の実力や能力以外にもさまざまな要素がありますよね。

矢嶋:
そうなんですよね。

財部:
私のみるところ、矢嶋さんのケースはあまりにも波乱万丈で、島津製作所はどちらかといえば保守的な会社だったと思うんです。矢嶋さんはそこに中途入社をされて、社長になられたわけですが、物の本によれば「当時3人いた専務の中でも」末席だったということですね。このように、けっして主流ではなかった矢嶋さんご自身が社長になられた、ということを振り返って、いまどう思われますか。

矢嶋:
そうですね。私は、会長になった頃から講演依頼がよく舞い込むようになったんです。そこで最初に「どんな題名にしようか」とあれこれ考えた末、「巡り会い」というのはどうかな、と思ったんです。実際、人と人との出会いを中心にして、いろいろとお話をさせていただいたところ、割と「ドキュメント・タッチで面白い」という話になっているようです。

財部:
ええ。

矢嶋:
やはり、田中耕一君がノーベル化学賞をいただいたときの社長だった、ということもありますからね。こんなことは、まったく運でしかないですよ。「また来年、スウェーデンでどうぞ」なんていう話はないですからね(笑)。

財部:
そうですよね(笑)。

矢嶋:
それにしても、いろいろ話を聞くと、ノーベル賞を受賞された方々も、さまざまな偶然や失敗が成功につながっているというエピソードばかりですよね。東大の小柴昌俊名誉教授や筑波大学の白川英樹名誉教授にしてもそうだし、田中君にしてもそうなんです。だからやはり人間とは何か、お釈迦様の掌の上で踊らされているだけ、という感じもしますね。

財部:
私も改めて資料をみていたら、田中さんがノーベル賞を取られた5ヶ月前、島津製作所は創業後初の赤字を出しているんですね。おそらく、それ以前からさまざまな改革に取り組まれ、その途中でノーベル賞を受賞されたわけですから、ちょっと劇的ですね。

矢嶋:
彼が(ノーベル賞に)内定したのは2002年10月ですが、その年の9月の半期決算で、やっと黒字転換したんです。話が遡るのですが、私が1998年に社長になり、2年ぐらい経った頃に「会社がおかしい」ということがわかってきて、いろいろと手を打ってきたんですが、2002年3月の本決算で約100億円の赤字を出しました。

財部:
そうなんですか。

矢嶋:
いずれにしても、そのとき「1400億円以上の売上と40億以上の経常利益を達成します」という約束をしたわけですが、9月にやっと半期決算の黒字が出て間もなく、10月7日か8日に、田中君のノーベル化学賞受賞の内示が出たんです。ですから、本当にびっくりしました。日本経済新聞の「私の履歴書」にその模様を執筆した時は、「神様からの贈り物」と書いたんですが、まさにそういう感じだったですね。

財部:
あの1件で、社長ご自身、また会社の中身や空気もほんとうに変わったんですか?

矢嶋:
ええ。やはり、劇的に変わったですね。

財部:
劇的に――。何がどう変わったのでしょうか?

矢嶋:
まず第1には、田中君が、そういう非常に素晴らしいノーベル賞をいただいたことに対する単純な喜びですね。そして第2には、彼らはその5人のチームでやっていたわけですが、田中君は「自分は、最終的なスペクトルをみていただけ」だというんです。けれども、そのチームの中で「俺がいなかったら受賞できなかったはずだ」とか「あいつが貰うんだったら俺が貰ったっていいじゃないか」という話は一切ありませんでした。これには非常に驚きましたね。

財部:
ほお、それは凄いですね。

矢嶋:
その時、私がたまたまアメリカにいたという話はご存知だと思いますが、アメリカでテレビを観ていると、ノーベル賞の受賞内定日に、分析の事業部長の中本君と経営戦略室の山本室長が、玄関に社員を皆並べ、拍手をしているところが映ったわけです。その中を、田中君は頭かきかき、出社してきたわけですよ。

財部:
ははは。

矢嶋:
テレビを観ていると、「えっ、これがほんとうにウチの会社か」と思うぐらい、びっくりするほどの良い雰囲気でしたね。

財部:
ほんとうですか?

矢嶋:
やはりですね、その数年前から会社の業績が悪かったので、社内で「出る杭」は打たれていたわけです。ですから皆の気持ちが沈み、どちらかいえば「下を向いて歩いている」という感じでした。ですから、その頃には社員があまり喜んだ表情をみせたことがなかった、というのが1つ。それから、僕が社内で「改革をやる」といったとき、「ほんとうにできるのか? 矢嶋についていって、ほんとうに大丈夫か?」という疑心暗鬼を募らせていた社員が、たぶん6割はいたと思う。

財部:
6割ですか。多いですね。

矢嶋:
でも、残りの4割は「なんとか、今度こそやらなきゃだめだ。俺たちがやらなきゃいかん」と思っていてくれたはずなんです。そういう社員たちが、まあ、生まれてきたばかりの子供みたいな輝く顔をして、田中君を出迎えている光景を、僕はアメリカのテレビで観たわけです。正直いって、これには驚きました。

財部:
これは面白い構造ですね。社長がアメリカで、ある意味で僕たちと同じ立場でテレビを観ていたということですから(笑)。お話を伺っていて、とても不思議な感じがします。一般のわれわれは、ただテレビを観て、「ああ、島津製作所の人は皆喜んでいるな」、と普通のことだと思うわけです。しかしそのとき、御社内にはじつは全く違う厳しい状況があり、皆が「出る杭」を打たれるような雰囲気で、下を向いて歩いていた。それが田中さんのノーベル賞受賞でガラッと変わり、社員達の喜びが表に溢れ出た。その模様を、社長がアメリカのテレビで眺め、また深い感動に浸っていたというのは、面白い話ですよね。

矢嶋:
ちょうどその日は、僕がアメリカに着いた当日ですから、皆が「1時の飛行機があるから、すぐ飛んで帰りなさい」というわけですよ。まあ当然ですね、皆がそういうのも。