日本の農業を成長産業にするには
ジャーナリストにとっても、経営者にとっても大切なのは「正しい現状認識」です。今起こっていることを正しく認識できなければ、この先何を備えるべきなのかがわからないからです。今、認識すべき事象はあまたありますが、真っ先に挙げるなら「20世紀と21世紀はまったく違う時代になる」ということです。何が違うのか、第一のポイントは「自由貿易時代がくる」ということです。
今、TPPの議論が終盤戦に入っていますが、これは近日中に決着を見ることでしょう。日本の市場は自由化へと進んでいます。いくらいやだと叫んでも自由貿易、関税撤廃は世界の潮流です。貿易自由化は1970年代からGATT、WTOという枠組みでさんざん議論されてきました。しかし参加国が自国の利益ばかり主張するため埒が明かず、GATTもWTOも事実上機能停止になりました。
いま貿易自由化の議論はFTA、EPAという地域間協定へとステージが移っています。利害が一致する国同士から自由化を進めてしまおうということです。このように自由貿易、関税撤廃の議論はステージを変えながら、もう40年も続けられているのです。この流れは止められません。
ヒト、モノ、カネが自由に動く時代に突入していく中、日本だけがそれを拒絶するわけにはいかず、もはやTPPに参加することは避けて通れませんが、関税撤廃となればメリット、デメリットが同時に押し寄せて来ます。特に高い関税で長い間守られてきた日本の農業はかなりの衝撃を受けることが予測されています。
だからTPPは第三の開国と呼ばれています。第一の開国は言わずと知れた「ペリー来航」です。幕末の大事件がきっかけとなり260年続いた江戸時代の鎖国が終わりました。第二の開国は「太平洋戦争の敗戦」です。GHQによる憲法改正、教育法改正、財閥解体、帝国主義から民主化へと日本は根本から変えられました。そして第三の開国が「TPP」です。こうして振り返るとそれぞれの開国直後は大混乱に陥りますが、その後は目覚しい経済成長を果たします。TPPも自由化直後のダメージは予測されますので、それを低減するために今やるべきことをやる。それは競争に耐えうる強い農業をつくることであり、超ドメスティックな視点しかもたない、旧態依然とした農協の改革は必須と言えるでしょう。
2月12日の午後、安倍首相は国会で施政方針演説を行い、「戦後以来の大改革に力強く踏み出そう」と、アベノミクス第3の矢の「成長戦略」の筆頭として「60年ぶりの農業改革」を挙げてきました。その改革の核である全中は一般社団法人となり、地域農協への指導・監査権が廃止されることになりました。またどうせ骨抜きになるだろうという見方が強かった農協改革ですが、今回、政府の本気度が勝りました。佐賀県知事選で優勢だった自公候補の樋渡氏に対し、劣勢だった山口氏をJA佐賀が全面支援、組織票をまとめて最後巻き返し勝利をさせたことが、皮肉にも安倍首相、菅官房長官を本気にさせたと言われていますが、多少の妥協点は見られるものの、農協改革は安部政権の完勝と言えるでしょう。
この改革でJA全農が株式会社となり、出資者は地域の農協となる。力のある農協は出資を増やして発言権を高めることができる。これによって多様な農協経営を見ることができるでしょう。これまで日本の農産物は品質が良いといわれてきましたが、しかし技術一流、マーケティング三流と呼ばれるように、日本製がいくら優れていても、海外市場でまったく競争力をもっていません。日本が誇る「和牛」を「WAGYU」として世界に輸出している最大の国はオーストラリア。また日本が誇るリンゴ「ふじ」を世界に輸出している国は中国。世界中で和食屋、すし屋を経営している多くは韓国人だということはよく知られた話です。あまりにもお粗末です。
これは日本の農業のリーダー的存在の全中が、まったく世界を見ず、内向きな政治活動しか興味を持ってこなかった結果であり、そのせいで日本の農業は大変な遅れをとってしまいました。競争力どころか、農協存続のために会員数を増やそうと、やる気満々の専業農家より、片手間の兼業農家を優遇する始末です。
例えば千葉の農業経営者からこんな話を聞きました。
「農協は兼業農家に依存し、兼業農家はJAに依存しているので、JAをバックにつけて地域で幅を利かせています。象徴的な兼業農家というのは、夫婦共働きで、夫が農協勤め、奥さんは役所勤め、二人で退職金3000万円はもらえるでしょう。その親は農家をやっていますから、早期退職して農家を継げばいいと思っています。そこでは適当に米をつくっていれば助成金がもらえます。あとはJAと一緒になって米価を下げるなと騒いでいればよいと思っているのです」。
全中も問題だが、こんな農家が幅を利かせているようでは、日本の農業が強くなるはずがありません。頭数として農協、全中から重宝されてきた兼業農家は、本気で農業を営もうと努力している専業農家から見たら足を引っ張る存在以外の何者でもないのです。
その千葉県の農業経営者は言います。
「補助金はやる気のある農家に集中させるべきで、兼業農家はもう農業をやめるべきだ」そうです。兼業農家など認めているうちは日本の農業が競争力など持てるはずがない。やる気のない農家から農地を取り上げ、集約化することで大規模農業に移行する。大量生産でコストを大幅に下げ、そこに補助金をどんと入れる。そうした循環をつくるためには、農地と補助金をやる気のある農家に集約させる必要があります。
また、今回の農協改革でこんな面白いことも起こるだろうと言っています。
「これまで生産者には農協を選ぶ自由がなかった。例えばそのJA地区内の生産者は、そのJAが推奨するものをつくる。推奨品以外を生産しても『市場に対してPRできない』と引き取ってくれないし、隣のJAには出荷できない。規則ではないが隣には持ち込めない暗黙の了解がある。でもこれからは自分のつくった良い農産物を、適正に評価してくれる農協を選べるようになる。JA同士の競争を促進して、経営感覚のある農協が生き残っていくという仕組みです」。
一転、生産者が農協を選ぶ時代になるというわけです。立場逆転です。
「また、農協都道府県のJAには企業との契約栽培などの話がきていても、地域農協にとって都合が悪い話となると、生産者にはまったく伝わってこなかった。生産者不利益を与える農協はそっぽ向かれると思います。それが変わっていくと思います」
あまりにもムダが多すぎただけに、日本の農業はいくらでもイノベーションができるとその農業経営者は言います。
「ゆくゆくは農協の壁もこえて、千葉県全体でこれという農作物をリレー作付けしていけば、大変な競争力を持つことになります。農業はこれから面白いことになりますよ」。
日本の農業改革、農協の呪縛から解き放たれて、どこまで自由化の前に力を付けられるか、目が離せません。(内田裕子)
歳出削減・増税の必要性、恐ろしいほどの不均衡
11月に第三次補正予算が成立したが、それを含めた日本の一般会計を見てみると、まず、日本の歳入は税収が約40.9兆円、日本政府の資産売却などの収入が9.6兆円で合計約50兆円。なんとか必死にかき集めた財源は50兆円だ。ところが、歳出を見てみると106兆円です。
50兆円の収入に106兆円の支出だ。恐ろしいほどの不均衡。
収入の倍もお金を使っているわけだが、いったい何に106兆円もお金がかかっているのか中身を見てみると、社会保障費が約30兆、地方交付税が約19兆、国債の元利払い費が約21兆、合計で約70兆円。この3つで歳出全体の7割を占めているのだ。
その中でももっとも費用がかさんでいるのが社会保障費の30兆円。税収が40兆円しかないというのに、社会保障費だけで30兆円も使っているのだ。さらに、この社会保障費の内訳を見てみると、年金10.4兆円、医療8.4兆円、介護2.2兆円、生活保護2.6兆円、社会福祉で4.4兆円だが、恐ろしいのは、この社会保障費はこのまま放置しておくと、毎年1兆円ずつ増えていくと試算されているのだ。
そうなると、社会保障費の削減を厳しく行っていかなければならないのは、わかりきっているのだが、この問題を深刻にしているのは、少子高齢化だ。
これから、日本は人類がこれまで経験をしたことがない「超高齢化社会」に突入していく。厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所の発表によると、日本の人口は2050年に1億人を切り9500万人になると予測されている。現在の日本の人口は1億2700万人(総務省統計局)なので、このままでは、あと40年で3000万人が日本からいなくなるということになる。
これはどれほどのことなのだろうか。東京都の人口は約1310万人だ。大阪府の人口は約880万人。そして愛知県の人口は740万人だ。これを足すと、約3000万人になる。つまり、東京、大阪、愛知に住んでいる人全員が、40年かけてじわじわと日本から消えて行くということだ。これは驚くべきことだ。
これから訪れる「超高齢化社会」とはどのような姿かというと、現在、日本の人口1億2700万人のうち、65歳以上は約3000万人で、人口の23%が高齢者だが、40年後の日本の人口は9500万人、65歳以上は約3700万人となり、人口の40%が高齢者になる計算だ。
この超高齢社会を支えていくのは若い世代になるが、日本の労働力人口(15歳から64歳の人口)の推移を見ると、1995年の8717万人いたが、2000年には8638万人になり、2050年には5000万人を割り込むと予測されている。日本から働く人がいなくなってしまうのだから、日本の少子高齢化問題というのは、「高齢化」よりも「少子化」のほうが深刻なのだ。
これからの若い世代の社会的な負担は決して軽いものではない。高齢者の社会保障を少ない若い世代で支えていくことになるからだ。日本の社会保障給付金はぜんぶで105兆円だ。国民が毎月払い込んでいる保険料だけではまったく足りず、税金から37兆円が補填されている。この社会保障給付金が2025年度には141兆円必要になってくる。現在でも足りないのに、さらに36兆円が必要になってくる。この分はもちろん国民が負担するしかないのだが、高齢者は社会保障を受け取る側なので、実際は働いている世代が36兆円を負担していくことになるのだ。これは現実的に支えきれるものではない。
こうなるともう年金給付額削減、給付年齢の引き上げ、医療費負担増などを行っていくしかないのだが、それを突然やるわけにはいかない。そこで増税やむなし、という話題は出てきているのだが、ここは政治の問題であり、民主党政権が消費税増税を口にした結果、参院選で惨敗した。この日本の財政状況を正確に把握していれば、歳出削減と同時に増税が必要なのはわかりきっていることなのだが、民主党政権は恐ろしくてそれを実行できない。12月6日の毎日新聞の一面に消費税54%が反対という記事があったが、こうした意見が「世論」として形成されていくと、なおさら増税は先送りになる。さらに、東日本大震災の復興需要によって、来年は経済成長2%を見込めるという、日本経済巻き返しというタイミングで「増税」というのは、ありえないという意見も正論だったりする。日本は非常に判断をせまられている。
ここでポイントになるのが「日本国債」の格下げだ。
今は欧州の金融危機の影に隠れているが、じつは日本国債リスクもじわじわ高まっている。現在、日本は経常収支(所得収支と貿易収支)が黒字なので、まだ問題化しないが、この両方が赤字化すると、問題が生じてくる。
このまま輸出競争力が減り、今回の原発事故の影響もあるが、エネルギーの輸入が増加すると、日本は貿易赤字に転落していく可能性がある。
また、日本の国債は、ギリシャ国債とは違い、日本国内で消化されているのだから、デフォルトする危険がないという意見があるが、そんな都合の良いことはない。たしかに日本の国債の多くは日本の金融機関が保有しており、その後ろ盾になっているのは、国民が持っている預貯金816兆円だ。しかし、日本の貯蓄率は年々低下しており、2015年には団塊の世代800人による預貯金の取り崩しが始まる。日本の貯蓄率はマイナスに転じる。そうなると国債の発行額は抑えられないのに、受け皿となる預貯金残高は減少していくことになり、日本国内では消化できなくなる。海外にファイナンスを頼る必要も出てくる。そうなると、イタリア国債と同じように高負債国の債券として、金利は上昇し、デフォルトの可能性を否定することができないのだ。
日本の借金は1000兆円になろうとしている。(「借金時計」 )
日本の財政問題をそろそろ本気で考えないと、本当に日本は力を失ってしまう。(内田裕子)
いよいよ極まってきた上海事情
「多くの店が閉店する中、おかげさまでうちは右肩上がりですよ」。
笑顔でそう答えたのは上海で日式イタリアンレストラン「コラボ」を経営している黒木論一さんだ。去年の夏にBS日テレ『財部ビジネス研究所』の企画「若き企業家 上海での挑戦」で日本人が経営する3つの飲食店を取材させていただいたが、その中で、もっとも成功していたのが、このコラボだった。
コラボの経営者は黒木さん、中村一昭さん、陳春楊さんの3人。同額を出資して共同経営というスタイルをとっており、厨房ではイタリアで修行をし、日本でもイタリアンレストランのシェフを経験している阿由葉知博さんが腕を振るっている。4人はいずれも30代という若さだが、経営の才覚がある黒木さん、コラボが別に経営するナイトクラブで大成功をおさめている中村さん、そして上海の事情に精通している陳さんが、それぞれの役割をこなし、シェフの阿由葉さんが若い中国人の料理人に繊細な味のイタリア料理を教える。4人は中国語が堪能なため、中国人従業員たちと自由にコミュニケーションを取っており、日常的に携帯メールのやり取りもしているという。まさに絶妙な"コラボレーション"が実現しているのだ。
今回、上海出張の際に「コラボ」の衡山路店と古北店に再訪することができた。
東京でいうと青山のような所、と紹介される「衡山路」のお店に行ったのだが、まず目に付いたのは、中国人の女性ばかりのグループ。ワインを片手におしゃべりに花を咲かせていた。私たちのすぐ隣のテーブルには、若い中国人カップルが上品にコラボのイタリア料理を楽しんでいる姿があった。お店のお勧めワインも1本300元?500元(1元15円)と決して安くはないのだが、躊躇なく乾杯をしていた。「最近、上海人は普通にワインを飲みますよ」と、一緒に食事をした上海人の友人がつぶやくのを聞きながら、中国人の中年男性がワイングラスをくるくる回して香りを確認しているのを見たりすると、上海にも洋食文化が浸透してきたのだなと感じた。
たしか、去年の夏に伺った際には、コラボのお客さんは日本企業の駐在員やその家族、または外国人客がほとんどだった。中国人は上海政府の役人や企業経営者など、海外旅行を経験したことがあるような上流階級のみが、会食などでコラボを利用し始めたという段階であって、1回のディナーに支払う金額はダントツだったものの、客の割合としてはまだまだ少数派だった。
ところが、今回は違った。店内のお客さんはほとんどが中国人になっていた。とくに、翌日に伺った、住宅地「古北」にある店舗には、子供を連れた家族がいるなど、一般的な上海人をしっかり固定客にしていた。
「いまはお客さんのほとんどが中国人ですよ」と黒木さんは言う。
前回の取材の際に、コラボの成功のポイントは「日本人経営者が完全に現地化していること」と「日本人が一番働いていること」とレポートしたが、1年たった今でも、それはまったく変わっていない。オーナー陣がとにかくよく働く。毎晩必ず店頭に出て従業員の働きや、お客さんの動向を観察して、常に改善していく。飽きっぽい上海人を固定客にするには、並大抵の努力では上手くいかない。中国人従業員を仲間として扱い、中国人客の好みに耳を傾ける。上海の地でも、そのような客商売の基本を怠らないという姿勢がコラボをますます成長させているのだろう。
しかし、そうはいっても中国。いくら好調なコラボでも良いことばかりではない。つい最近、店舗のひとつが閉店したというのだ。閉店したのは静安公園店で、2003年にオープンしたコラボの上海1号店であり、オーナー陣にとっては思い入れのある店舗だ。入居した際は「誰がやってもうまくいかない」といういわくつきの物件だったようで、さらにSARSウィルスの騒ぎがあり、借り手がいなかったため、安い家賃からスタートすることができた。パスタなど食べたことがない中国人相手に、最初は苦戦したが根気強く商売を続けた結果、いまではパスタを中心としたカジュアルイタリアンとして、周辺地域にも認知されて固定客もしっかりついていた。ところが、今年に入り中国特有の理不尽な家賃の値上げ攻勢に遭い、採算が合わなくなり、やむなく撤退したというのだ。店舗の裏が公園になっている開放感のあるお店で、知人の上海人も「週に2回はパスタを食べにいっていたので残念」と言っていた。
「ここ最近の上海の家賃上昇はちょっと尋常じゃありませんよ」と黒木さんは言う。
「上海は家賃が高い」というのは、世界の投資家、ビジネスマンの常識だが、夏以降から、どうも様子がおかしいというのだ。
「上海の不動産の価格はどう考えてもおかしい。完全にバブルですよね。こんなに割高であるにもかかわらず、これまでは不動産価格が値上がりしていたので、みんな喜んで不動産を買っていたわけです。でも、ここにきて、不動産価格が頭打ちになってきました。場所によっては値下がりしてきているところもあるんですよ」。
中国はバブル経済を抑制するために、金融引き締めをおこなっており、不動産投資への融資に規制をしているので、不動産価格の上昇が止まるのは想定内というところだが、それによって起こっていることは、いかにも中国らしい現象だ。
「不動産はもう値上がりしない。それでは投資額が回収できないと、ようやく気が付いた不動産のオーナーたちが、夏以降、急激に家賃の値上げをしてきているのです。我々には陳がいるので、そういった面で交渉力を持っているので、これまでなんとかやってこられていますが、多くの外国資本のレストランが、流行っているにも関わらず、店をたたまざるえない状況に追いやられているのです」。
採算が取れないと逃げ出すほどの高い家賃でもまだ借り手がいるのが、上海の不動産オーナーを強気にさせている理由なのだろう。
11月17日の日経新聞は、「日本の対中投資熱、再び、1?10月65%増」と報じており、日本の対中投資が再びブームになっているそうだ。今回の対中投資の特徴は、中国事業拡大に対する統括会社の立ち上げ、研究開発拠点、戦略立案拠点としての進出が増えていること。しかも、日本は円高、電力不足懸念などで、国内の投資環境が悪いことも、中国に目を向かせている要因だと言う。
また、中国政府には金融緩和という技も残っており、厳しい不動産融資の規制を緩めれば、多少値段が下がった物件に興味を示す投資家も出てくるかもしれない。そうは言っても、資金繰りに苦しむ中国のデベロッパーやゼネコンが上海では急増しており、不動産が供給過剰であるのは間違いない事実なので、ニーズがあるうちはこのおかしな状況が続くのだろうが、家賃と収益を計算して、「どうやっても上海では採算があわない」となれば、中国の都市は何も上海だけではないと、もっと投資効率の良い拠点を捜す企業も出てくるだろう。そうなると、入居者を獲得するために、一転、不動産賃料は値下げ競争になることも予想される。
そうした不自然な上海の不動産事情でもっともひどいのは賃貸住宅だと、黒木さんは言う。
「うちの従業員のマンションのオーナーなんか、ひどいですよ。5000元の家賃に1000元、2000元の値上げを平気で要求してきますからね」。
80年代のバブル経済を体験した日本人にとっては、なんだか、懐かしい感じがしますね。
上海もいよいよ極まって来たかな、と感じた今回の出張だった。(内田裕子)
多様な被災地、それぞれの現実に即した復興を
4月27日に仙台と気仙沼の被災地に入り、被害の状況を見てきた。
震災から1ヵ月半たった今でも街は瓦礫で埋め尽くされており3月11日に東日本太平洋沿岸を襲った津波がいかに凄まじいものだったのかがわかる。気仙沼漁港では複数の漁船が岸壁に乗りあげて、仙台市若葉区では海沿いに広がる田畑に泥まみれの乗用車が何台も転がったままだった。震災当日、被災者がどれだけ恐ろしい思いをしたかが手に取るようにわかる。亡くなった方のご冥福をただ祈るばかりだ。
上記のような惨状はテレビで何度も伝えられており、当然行く前からそれなりに想像はしていたが、実際、岩手、宮城で見た被災地の状況はテレビで見たものと少し異なったものだった。テレビ報道では震災の象徴的な映像をいくつか選んで、数秒単位に絞って編集して放送するのが常だ。カメラレンズが捉えることができる視界も限度がある。さらに公平で配慮のある報道が求められる。つまりさまざまな制約があるのだ。それを今回の震災報道にあてはめて考えると、被災地からのニュース映像は、瓦礫の山、壊れた船や車、避難所の風景、被災者の声、そしてスタジオキャスターの優しいコメント、というように報道が形式的になる。わかりやすい風景、わかりやすいインタビューコメントが採用され、情報が単純化されて視聴者に伝えられる。良くも悪くもこれがニュース映像の特徴だ。
しかし被災地に行って周囲を見渡すと、現実はそれほど単純ではない。被害状況は地域場所によってまったく違っている。あたりまえのことのように聞こえると思うが、これは実際に見てみなければわからないことだ。
東北沿岸部といっても地形の微妙な違いによって津波被害は違っている。例えば、小さな島々が集まる景勝地、松島はその島々が防波堤となり津波の勢いが削がれたことで、死者1名と他の被災地に比べると被害が極めて少なかった。海沿いの商店街は浸水のため数店舗が休業中だったが建物自体の崩壊はなく、ホテルは4月から営業再開しており、島を巡る観光船も動いていた。しかし、松島からたった数キロしか離れていない東松島市や石巻市は甚大な津波被害によって多数の死者と被災者を出している。同じ宮城県の海沿いの街でもその地形によって状況が違っているのだ。
地域差どころか、同じ被災地の中でも立地の差で明暗が分かれている所もある。気仙沼市を例にあげてると、もっとも被害が大きかったのが鹿折地区。自衛隊が集中的に復旧作業にあたっていた地区だが、津波によって船の燃料の重油が住宅地にひろがり、4キロ四方すべてが火災で焼けてしまった。ところが驚いたのは、そこから数十メートルしか離れていない高台の住宅地はまったく被害を受けておらず、従来どおりの生活を営んでおり、庭には洗濯物が風に揺れていた。
右を見ればなにごともなかったような普通の生活、左を見れば瓦礫の山。両極端の景色が同じ視界に存在しているのだ。津波災害の非情さを感じると同時に、同じ被災地の住民でもみんなが避難所生活を送っているのではなく、その感情は様々であることがわかった。これはテレビでは伝えられない実態だ。
一方、同じように津波被害がひどかった仙台市若林区に行ってみると、その状況は気仙沼とはまったく違っていた。
長い海岸線が続く若林区は土地のほとんどが田んぼであり、高台などはどこにもみあたらない広大な平野だ。リアス式の漁港を襲った激しい津波とは少し違い、ここでは津波はじわじわと時間をかけて押し寄せてきたと言う。ですから家屋の多くが浸水したものの崩壊はまったく見られない。しかし、地震の際に起きた地盤沈下によって、水がまったく引かない状況が続いており、みわたす限りの田畑は全滅だ。そのぐちゃぐちゃになってしまった田畑の中に、津波で流されてきた車がごろごろと転がったままだった。
ここでも明暗が分かれた。若林区の海沿いには高速道路が通っており、それが堤防代わりになって津波を食い止めたのだが、高速道路を挟んで海側は津波で全滅、反対側はのどかな田園地帯の風景。この数メートルの差で運命が変わってしまったのだ。
「被災地」「津波」という2つの言葉で語られがちだが、被害状況は現場によってまったく違っている。漁業は船さえ手に入れば、すぐに仕事は再開でき現金収入も期待できるが、農業はそういうわけにはいかない。家は失ったけどすぐに稼げる漁港の被災者と、家はあるけど安定した収穫の見通しは数年先までわからない農業の被災者。同じ被災地の中でもまったく被害にあわずにすんだ住民。さらには被災地の人口、人口構成、産業、GDP、地理的条件など、現状は非常に複雑なのだ。
それを理解せずにメディアによって単純化された被災のイメージだけで復興会議などしても、そこにはリアリティがない。「津波が来るリスクを避けてみんなで高台に移住するべきだ」と言う意見も聞かれるが、そういった場所の都合のよい高台は、すでに住宅地として開発済みなのだ。さらに奥にある山を切り開いて住宅地を増設することにしても、長年漁業を営んできた人たちに提供する住宅としてそれが本当に現実的な対応なのかというとはなはだ疑問だ。莫大な税金を投入して新たな限界集落をつくることにもなりかねない。国が港周辺の土地をすべて買い取って公園にでもしない限り、時間の経過とともに利便性の高い海のそばに戻ってくることは目に見えている。
そうなってくると復興は自治体レベルで住民と話し合いながら、現実に即した形でやっていくしかない。しかし、今、町役場は義捐金の配布だけでも手一杯という現状だ。そうこうしているうちに、避難所生活に疲れた住民が、瓦礫の撤去も済んでいない自分の土地に戻り、プレハブを建て始めたという話も聞こえてくる。このままでは、地域の特性を踏まえた安心安全の街づくりをする絶好のチャンスを逃しかねない。
この期に及んでも菅政権は出来もしない政治主導に固執し、役人に任せずやたら復興に関係する会議ばかりつくっている。しかし、それらの会議で復興プランができつつあるのかというと、残念ながらそうした気配すらない。そんなものは形だけで、結局首相自らがすべて決めようとしているために復興プランはいつまでたっても出来上がらず、被災者は大変なストレスを感じる状況が続いているのだ。
菅政権は役人をもっと上手に使って復興を急ぐべきだ。現在、霞ヶ関の役人は力を持て余している。金融や税金の緩和は政府主導でやる必要があるが、例えば、仮設住宅をつくるのか、他県への一時的に生活の場を移すのか。長期的な問題で言うと、従来の権利を元に街を再現するのか、そこに新しい街づくりをするのか。それともみんなで高台へ移住するのかという問題は、被災地の実情にあわせて住民達が考えていくべきものだ。しかしプラン作成にはスピードやノウハウが必要になるので、自治体ごとに国の役人を数名ずつ派遣する。役人はあくまでもサポートに徹しながら地域のプランを実現するための方法を考える。
多様な被災地それぞれの現実に即した復興をスピーディに行うためには、自治体主導、役人補佐という形がもっとも現実的であろう、と今回の取材を通じて感じた。(内田裕子)
観光立国を目指す日本の課題
地方の温泉旅館の再生を取材している。日本の旅館の数は70年代には8万件を超えていたが5万件に減少した。取材した静岡の某温泉地はその典型で、かつては年間80万人の観光客で賑わっていたが、現在は40万人に落ち込んでいる。地元の観光協会が言うには、ある程度、集客力があった大型旅館が「これからは個人旅行客の時代だ」と思い切った投資をして改装をしたものの、負債を抱え破綻したケースが少なくないという。団体旅行が主流だった時代は、集客は旅行代理店任せとなり、来た客にはそれなりの対応をしていればよかった。しかし個人客相手になると話が違う。営業や宣伝、顧客満足度を上げていく努力が必要だが、簡単ではない。顧客の志向の変化に対応できず、やはり団体客を取らないと商売にならないと、揺り戻しも起こっているという。
では、日本の観光業界は衰退の一途かというとそうではない。むしろ成長産業として期待されている。じつは日本の観光産業は23兆円の巨大な市場で、自動車産業49兆円の半分もある。その勢いを感じることができないのは収益性が低い業界だからだ。つまり無駄が多く利益がでていない。また、政府が観光立国宣言をして、現在800万人の外国人旅行者を2020年には2500万人にするという目標を掲げた。これが実現すれば日本へ来るお客さんは3倍以上に伸びる。今の日本でこれだけ成長する可能性を秘めている業界は他にはない。ただ残念ながら、地方観光地の多くが外国人旅行客の受け入れ準備はまったく出来ていない。いかに日本の観光業界にビジネス感覚を持ち込むことができるか、そこが大きな課題である。
(内田裕子)
日本経済復活に向け量的緩和と産業政策を
再び日本の政策金利がゼロになった。ゼロ金利だ。さらに国債や社債などを35兆円程の基金で買い入れるという。これまで日銀は断固として国債買い入れには応じなかったので、「異例の措置」と強調する。先月行われた為替介入同様、中央銀行として強い意志を市場に表明することは大賛成だ。しかし、これまでの態度を急に軟化させて異例の措置を取らせたのは、米国の量的緩和政策に堪りかねてといった背景がある。「米国の金融政策は未踏の領域に入って来た」と言えば聞こえはいいが、実態は「なりふり構わず」といった様相でありモラルハザードの危険を感じる。
今、FRBは日本型デフレに陥らないように必死だ。株高、金利低下、ドル安に誘導するため、実質ゼロ金利を実施し、信用緩和で購入した不動産担保債券の償還金を長期国債の購入に当て、さらなる追加緩和を匂わせている。過去、世界が金本位制から、裏づけのないドルを基軸通貨として認めたのは、米国がドルをコントロールするという暗黙の了解があったからだ。今、その使命感は忘れられドルは米国の国益のために大量に供給されている。このままでは日本の円高デフレは終わらない。そんなプレッシャーに突き動かされて今回「異例の措置」が取られた。量的緩和は円高阻止に必要だが日本経済復活の本質ではない。圧倒的な産業政策と共に実施されることで効果を発揮することを忘れてはいけない。(内田裕子)
ドル安の正体
4月から続いた円高基調にようやく歯止めがかかった。6年半ぶりの日銀による為替介入によるものだ。民主党代表戦の翌日、菅政権継続で円高容認も継続、というのがマーケットの見方だった。その勢いで円高がさらに進み、1ドル=82円台まで突入したところで突然の為替介入。誰もが予想しなかったタイミングだったためマーケットは意表を突かれた格好となった。10時30分頃の介入開始をきっかけにマーケットは騒然となり、およそ30分程度で為替相場は85円台まで回復。同時に株式市場も輸出関連銘柄を中心に買い注文が殺到。日経平均株価は一時、前日比278円高まで振れた。現在、為替は85円周辺で安定しており、マーケットは日本政府の次の出方を慎重に見つめている。
ドル安の正体は米国の中央銀行が米国債を大量に買ってドルの供給量を増やしていることだ。日本が陥ったデフレスパイラルを回避するため量的緩和を必死で行っている。世界中にドルをばら撒いている状況だ。2000年に世界の中央銀行が保有する米ドル資産は1兆ドル程度だったが、現在5兆ドルに増加している。当然のことながら刷れば刷るほどドルの価値は薄くなりドル安になる。特に新興国は「ドル安、自国通貨高」に悩まされ、ドル買い、自国通貨売りで介入する。その結果、さらにドルの外貨準備高が膨らみ、その資金が国債や金などに流れている。米国のドル過剰供給が、為替市場だけでなく長期金利や金相場まで影響を及ぼしている。米国は国益をかけてドル安を固持している。円高是正に向けて動くのは相当な戦略が必要だ。(内田裕子)
上海不動産事情
今、上海に来ている。万博開催中の上海は賑やかだ。中国各地から観光客が集まり、どこのホテルもほぼ満室。室料は2倍以上に跳ね上がっている。しかし世界で最も景気の良い都市に住んでいる上海人にとっては、万博よりも商売や投資の方に興味があるようだ。所得水準が上がっている中、ここでは空前のマンションブームが起こっている。上海中心地から車でおよそ1時間、郊外のマンションを見に行った。ひとつの敷地内に90棟建っているマンション郡の一室、3LDK(100平米)が内装なしの箱売りで約1500万円で売られていた。ここの販売価格は3年で3倍になったという。3年後には地下鉄の駅ができるということで「まだまだ上がります」と説明係が言っていた。
そういった不動産投資の過熱を抑えるため、現在、中国政府は非居住のマンション取得に対する融資を規制している。しかし2件目、3件目の取得がすべて投資目的かと言えばそうとも言い切れない。今、マンションを買っている層はある程度お金があり、2件目を買ったら自分達が住んで、1件目は人に貸す。3件目は家族、子供用に購入するというのだ。しかもキャッシュで払う人が多いというから驚く。つまり2件目、3件目も実需だというのだ。日本では社会が成熟した後にバブル経済がやってきたが、こちらでは経済成長中の不動産ブームだ。少し郊外に出るとまともな住居を持っていない人も大勢いる。都市部の不動産高騰も事実だが、一方で膨大な需要が存在しているのも事実。中国経済は一面的には捉えられない奥行きがある。(内田裕子)
小売業界の迷走
コンビニエンスストアの業績が伸び悩んでいる。大手4社の2010年2月決算が6日に出そろい全社が営業減益となった。不振の理由としては、天候不順の影響で飲料や弁当が売れなかったこと、消費者の低価格志向に対応しようと、おにぎりやパンの値下げ、低価格弁当の拡充で利益が出にくくなったからだという。その状況に対して、今後の戦略として発表されたのは、総菜やパンの時間限定での値引きサービスや、低価格プライベートブランド商品の拡充だという。値下げで業績が悪くなっているのに、懲りずに安売りを続けるというのだ。こうした首を傾げたくなるようなおかしな戦略を続けているのは、恐らく、日本は不景気=安くしなければ消費者には指示されない、という図式に各社しがみついているからだ。
コンビニを始め小売各社は生き残りをかけて必死に顧客争奪戦を繰り広げている。しかし、やればやるだけ儲からなくなる戦略を続けていけば先は見えている。そもそも消費者の購買動機は価格だけなのか、という疑問がある。最近の小売店は同じパッケージのプライベートブランド商品で棚の大部分が占められている。行く度に選択の自由がなくなっていることにつまらなさを感じる。日本の食品メーカーのレベルが世界と比較して高いのは、厳しい目を持つ日本の消費者に選ばれ、育てられたからだ。同業他社との競争が食品メーカーの商品開発を促し、工夫や努力の末に生まれた新商品は消費者に買い物をする喜びや生活の豊かさを与えてきた。そうして消費と言うものが促されてきたのだ。今、小売業界はそもそもの存在理由を見失っているように感じる。小売業界は食品メーカーを育て、消費者に買い物の喜びを与える義務があるのだ。あくまでも場の提供者であって、両者に不利益を与えるものになってはいけない。(内田裕子)
緩やかに進む人民元改革
ようやく中国・人民元が切り上げられる、というニュースでいっぱいになった先週だった。長い間、ドルに固定されていた人民元に対し、切り上げを強く求めてきた米国。中国当局は「中国の通貨政策は中国が決める」と強気な態度を見せてきた。ところが、今月26日からカナダで行われるG20を前に米国が荒業を使ってきた。19日にオバマ大統領が参加国首脳に向けて「柔軟な為替政策は、力強くバランスが取れた世界経済を支えるために必要不可欠だ」という書簡を送った。「人民元」とは書かれていないが、明らかにそれと分かる表現になっている。米国にとって必要以上に安い人民元は対中貿易赤字の原因であり、特にリーマンショック後は米国の大きなストレスとなっていた。この機会になんとしてでも切り上げに向かわせたいという思惑があった。
中国側もG20という世界の舞台で国家主席がやり玉にあげられるのはまずいと思ったのだろう。翌20日、中国人民銀行は「人民元相場の弾力化」を発表。1ドル=6.83元で固定されていたドル連動を解除。市場はすぐに反応し1ドル=6.79元と最高値をつけた。しかしすぐに当局が元売り・ドル買いに入り急速な元高は認めないスタンスを取った。これは中国としては当然の行動である。中国は日本の失敗を研究しつくしている。米国から一方的に押し付けられたニクソンショック、プラザ合意で円が急速に競争力を失い、円高不況でそれだけ製造業が苦しみ、内需シフトでバブル経済に繋がって破綻していったのかを中国は学んでいる。そういう意味では「人民元改革は緩やかで管理可能なものであるべき」という中国の態度は国益を守るという点では一理ある。(内田裕子)
面子と人海戦術
上海に取材へ行ってきた。上海万博開催まであと1ヶ月。北京五輪と並んで中国の高度経済成長を象徴するイベントとして語られてきた上海万博がオープン間近だ。ライバル関係にある北京市の成功の後だけに、上海市政府が感じるプレッシャーは並々ならぬものだ。失敗など許されない。さらに世界中から観光客が訪れる大イベントだけに、上海の街はさぞ万博ムードで盛り上がっているのだろうと期待してきたが、意外にも予想は外れた。「上海、ずいぶんきれいになっているでしょ」と上海人が言う。移動中の車窓から上海の街を半年ぶりにじっくり眺めてみると、たしかに街は一段ときれいになっている。これは上海市政府が市民に対しテレビ広告を使って毎日のようにマナー向上を呼びかけている結果だという。「信号無視は外国人が見ている」「ゴミのポイ捨ていけない」「運転のルールを守ろう」とそういった類のCMが繰り返し流されているという。その効果で上海の街はずいぶんお行儀がよくなったという。
しかし、プラス効果ばかりではない。「そのような調子で毎日注意ばかりされていますので市民は万博に対して少ししらけ気味です」という。そうしたこともあって街を挙げてのお祭りという感覚はいまのところはないという。2005年の愛知万博を振り返ると、開催前に関連イベントを行って公式キャラクターを登場させたり、人気歌手にイメージソングを歌わせたり、街に旗を飾ったりして盛り上げていた。上海万博はそれがない。「おそらく会場の工事の遅れを取り戻すのに必死で、街のイベントには手が回らないのが実情なのでしょう」と知人。そうは言っても「面子」と「人海戦術」で、開催前にはすべてが完璧にできあがっているのが中国だ。そうした中国特有のエネルギーが経済成長をさらに加速させ、中国を凄まじい勢いで前進させている。(内田裕子)
中国経済の実態とメイド・イン・ジャパンの再評価
先月、イギリスのBBC放送が、2010年、中国のGDPは日本を抜いて世界第ニ位になると伝えた。中国に関する様々なデータは信憑性が高いとは言えないので、日中逆転の瞬間がいつかは正確にはわからない。しかし、2030年には米国を抜いて世界第一位の経済大国になるというのだから、中国経済が日本を抜くということはその過程のささやかな出来事に過ぎないのだろう。
中国の躍進はこれからが本番だ。世界中のマネーが投資先を探している中、主要国のなかでプラスの経済成長が予測されているのは中国だけだ。つまり今、一番安全な投資先は中国ということになる。お金というのは常に安全なところに逃げたがる。投資家の目線で見たら、不良債権に苦しむ欧米への投資はリスクが高く、中国以外の投資先を見つけることのほうが難しいというのが本音であり、しばらくは中国の独り勝ちが続くだろう。
こうなると、これからの世界経済は否が応でも中国を無視することはできない。日本も中国の需要を取り込むことなしに成長戦略を描くことは難しい。
中国へ取材に行くたびにその発展の勢いに圧倒されてしまう。
例えば、万博の開催間近で賑わう上海で、虹橋総合交通センターというプロジェクトが進んでいる。これは主要な交通機関を上海の虹橋空港周辺に集めて大ターミナルを築こうという計画だ。飛行機はもちろん、リニアモーターカー、新幹線、地下鉄、高速バス等、全ての交通を集結させる。世界中から訪れる外国人を中国全土へ運び、中国全土から集まる中国人を世界中に送る基地になる。さらに外国人向けオフィスや高級マンション、商業施設なども併設される予定で、上海の街のど真ん中に「巨大ターミナル都市」を造ってしまおうという計画だ。上海万博だけでも十分に賑やかなのに、それと並行してとてつもないプロジェクトが動いているのは驚きだ。
この発展ぶりは都市部だけの話ではない。昨年12月に中国内陸部である四川省・成都市に取材に行ったが、驚いたことに東京23区がすっぽりと入ってしまう広大な敷地に巨大な工業団地が造成されていた。国内外の主要な製造業の工場を誘致しようという計画で、北京政府も認めた国家級プロジェクトだという。中国内陸部にまで凄まじい勢いでお金が動いていることを目の当たりにした。
その際にイトーヨーカ堂の成都店を訪ねたが、中国人の消費意欲にも仰天した。連日、開店前から客が押し寄せては食料品や衣料品を買い求めている。以前とは比較にならないくらい商品の選択肢が増えたことが、彼らの購買欲を助長させている。
買い物客と話をする中で、「日本のスーパーなのだから、品質の高い日本製品をもっとおいて欲しい」という声が聞かれた。中国内陸部でもすでに品質へのこだわりが始まっていることに心底驚いた。特に日本製品への憧れは私たちが想像している以上のものだ。
これは日本にとってチャンス以外のなにものでもない。
香港や上海では今、化粧品のファンケルが「無添加」という高付加価値商品として評価され大人気になっている。東京に観光にやってくる中国人が行きたい場所のひとつに上げるのが銀座のファンケルビルだという。理由は中国で買うよりも、銀座で買ったほうが安いからだそうだ。そこまでしてファンケルを求める理由は何かと、店舗を訪れている中国人客に尋ねたら「中国で無添加と言っても誰も信用しません。日本の会社なら品質は間違いないと多くの中国人は思っているのです」。
他にも、大和ハウスが蘇州で展開する日本式マンションが注目されている。中国ではマンションはがらんどうで売るのが普通だが、日本では内装をすべて完成させてから販売するのが当たり前だ。大和ハウスの中国で販売するマンションは、照明やキッチン、風呂トイレなど、すべて日本メーカーで揃えている。これが中国人にとって「高付加価値マンション」として魅力的に映るというのだ。
今、中国で「メイド・イン・ジャパンの再評価」という現象が起こり始めている。ここで例に挙げた化粧品もマンションも共にマーケットが縮小する日本では成長戦略は描きにくい。しかし一転、中国に持っていくと、それらは非常に価値の高い製品として熱烈歓迎されるのだ。日本人がもう当たり前と感じている製品や技術は、中国人にとっては新鮮な気持ちで受け止められている。
「いまや品質や製造工程など、日本人以上に日本製品の本質を理解しているんです」とファンケルの広報は苦笑いする。
今、日本製品はグローバル経済下の価格競争に押されて、自らが持っている強みを捨てようとしている。しかし、"メイド・イン・ジャパン"の出番はもうそこまで近づいている。高度成長期に入った中国は戦後の日本と同じく、豊かになるに従って高品質の製品を欲しくなるのは目に見えている。その際に中国人がいくらお金を出しても手に入れたいと思うような輝かしい製品を、果たして我々日本人は提供できるのだろうか。
グローバル経済の下、低価格競争に翻弄される"メイド・イン・ジャパン"だが、日本の製造業はこれまで積み上げてきた技術をもとにした繊細で高付加価値なモノづくりのノウハウを決して失ってはいけない。
(内田裕子)
事業仕分けの本来の意味
長期金利がじわじわと上昇している。マーケットというものはじつに正直だ。2010年度の国家予算が概算要求段階で過去最大の95兆円超に膨らんだ。そうなると新規国債発行額を当初の方針である44兆円以下に抑えることは難しくなる。財政悪化のリスクを敏感に市場関係者が察知したということだろう。バラマキを進める鳩山政権も国債管理にはそれなりの危機感を持っており、長期金利の上昇を食い止めるべく、藤井財務相があわてて「国債発行額を44兆円に抑えて国債市場の信頼を維持したい」とアナウンスした。
そうなると95兆円の概算要求をどれだけ減らすことができるのかということになってくるが、政府としてはなんとか92兆円まで削減しようと目標を掲げている。差額となる3兆円を捻り出せるかどうかだが、今回の行政刷新会議による「事業仕分け」が、絶妙なタイミングによって、その役割を担う羽目になってしまった。
担う羽目、と書いたのには理由がある。そもそも「事業仕分け」というのは、国がやらなくてもよい事業、国で持たなくても良い組織を改めようという作業である。予算削減というのは本来、事業仕分けを行なった後の副産物であるはずなのだが、今回、予算編成の時期とたまたま重なったために、3兆円削減という国民の期待を一身に背負う格好で仕分けのスタートとなってしまった。
では、今回の「事業仕分け」が国民の期待に応えることはできるのか。これは正直、厳しいと言わざるを得ないだろう。今回、「仕分け人」に要、不要の審判を受けるのは、210?220項目、447事業だ。当初は240程度といわれていたので増加したことは評価されるべきだか、今回の作業では残念ながら1兆円も削減できないだろうと言われている。
しかし、驚くべきことに、447事業は国全体の事業の1割程度にも満たないというのだ。どれ程、天下り先をつくってきたのかとあきれる反面、まだまだ削減するべき事業は残っているということは、ある意味救いでもある。
今後、これらをひとつひとつ精査していくのは、気が遠くなるような作業になろうが、目先の財源捻出にばかりとらわれず、本来の目的である本質的な行政改革の作業として着実に進めていって欲しいと思う。
(内田裕子)
量より質の東京モーターショー
東京モーターショーに取材に行ってきた。
欧米のバブル経済崩壊のあおりを受け、海外からの参加者は欧州の自動車メーカーのロータス、ケータハム、アルピナの3社のみとなり、他メーカーは参加を見送った。その結果、二輪を含めた出展社数は109社と07年の241社の半分以下となり過去最低を記録した。
一方、4月に上海で行なわれたモーターショーの出展社数が1500社と大盛況だっただけに、日本市場が世界から見捨てられたかのような大げさな報道が見受けられるが、そんな単純な話ではないだろう。中国に進出している外国自動車メーカーはほとんどの場合が、中国の国営自動車メーカーとの合弁企業となっている。したがって中国において外国自動車メーカーは、中身の半分は中国企業である。総経理の多くは中国人が務めており、同時に共産党の幹部でもある。そう考えると、上海モーターショーが必然的に全員参加となり、規模が膨らむのは当然のことなのだ。
翻って、東京モーターショー。「環境産業革命」が本格的に動き出し、仮にでもCO2削減25%を世界に宣言した日本において、本格的なエコカーを堂々と展示できる自動車メーカーがいったい世界に何社あるのだろうか。新興国と違って日本人の車を見る目は厳しい。世界に先駆けて本格的なエコカー時代に突入した日本では、ただカッコいいだけの車はもう通用しない。実際、幕張メッセで見た日本のエコカーは非常に興味深く「良いものを見せてもらった」というのが今回のモーターショーの感想だった。満足した理由は日本の自動車メーカーが持つ環境技術にリアリティを強く感じることができたからだ。
これまでのモーターショーは近未来の車をイメージしたコンセプトカーという“模型”を展示している場という印象が強くあったが、今回展示されている多くのエコカーは実際に動くことはもちろん、驚くべき燃費をすでに実現している。つまり、近い将来、私たちが実際に買うことができる車が展示されているのだ。自分がエコカーを買うのだったらどれにしようかな、と選べる楽しみがあり、それはこれまでのモーターショーでは体験したことがないことだった。ハイブリッド車、プラグインハイブリッド車、電気自動車、燃料電池車と日本メーカーが、世界に先行して、幅広くエコカーの研究開発を進めていることを目の当たりにできて頼もしい気分にもなった。自動車は完全に新しい時代に突入した。それを強く実感させてくれたのが、今回の東京モーターショーだった。(内田裕子)
ダムという伏魔殿
新政権がマニフェストを実現するために動き出した。
その中でも前原国交相の動きが注目されている。大臣就任直後、まっさきに行なったのは八ッ場ダムの建設中止だった。
このダムの目的は「利根川の治水・利水」と表向きはなっている。ダムを徹底的に取材してきた知人によれば「本当の目的は道路だった。長野原町に道路が欲しくてダム計画が始まった」という。もちろん地元住民の反対運動があったということもあるが、その言葉を裏付けるかのように、ダム本体は57年たったいまも未着工。それでいて総建設費4600億円のうちすでに3210億円が使われている。そして地元には素晴らしい道路が完成目前だ。
ダムは政官業癒着、税金の無駄遣いそのものだ。
作ればつくるほどこの既得権者は美味しい思いをする。しかも、ダム建設はブラックホールのような恐ろしさを持つ。初期計画を通すには国会承認が必要だが、いったん工事が始まってしまえば、「設計変更」という名のもとに、簡単に追加予算を上乗せできる仕組みになっているのだ。建設費用が知らぬ間に当初の10倍近くに膨れ上がっているというダムも少なくない。
これは「八ッ場ダム」ひとつの問題にとどまらない。このような本当に必要かどうか定かではないダム建設予定がまだ140もあるからだ。
新政権が目指しているのは、単純な「脱ダム」ではない。役人主導で進められる「一度動き出したら止まらない公共投資」の慣習そのものをこわすことだ。国家の意思決定のメカニズムを変えることができるかどうか。大きな問題なのだという認識が必要だ。(内田裕子)
日本の宇宙開発、新時代
9月11日に種子島宇宙センターで行なわれた「H2B」ロケットの打ち上げに立ち会うことができた。
ロケットの炎は暗闇を一瞬昼間のように明るくしたが、バリバリという轟音と共に15秒ほどで厚い雲の中に消えていった。非常に感動的な一瞬だった。
このロケットは「HTV」という補給機を乗せて打ち上げられた。補給機の行く先は「国際宇宙ステーション」(ISS)だ。日米露欧の15カ国が協力し、98年から建設が進められてきた。先日、日本の実験棟「きぼう」が完成し、今後、宇宙飛行士に食料や衣料、実験機材を輸送する任務を「HTV」が担っていく。前任のスペースシャトルの引退がすでに決っており、今回は失敗が許されないミッションだった。それだけに18日早朝に行なわれたISSとのドッキングは世界中の技術者からも注目が集まった。
この「スペース宅配便」は費用も桁違いだ。JAXA(宇宙航空研究開発機構)によると、今回の打ち上げにかかった費用は147億円。「H2B」の開発費は195億円、「HTV」は680億円と合計で1022億円だ。もっと言うと宇宙ステーションへの投資額5900億円と巨額だ。
しかし、今回、日本の最先端技術が搭載された「H2B」「HTV」の活躍は実に感動的で誇らしいものだった。世界中に日本の技術力を見せ付け、絶賛されるのは気分が良い。景気が低迷し、明るい未来が語られない中、宇宙が秘めている可能性は無限の広がりを感じさせてくれる。
税金の無駄遣いという声や費用対効果について懐疑的な声も少なくない。しかし、リーマン破綻から1年、米国は公的資金を30兆円投入し、世界のマネーはじつに720兆円失われたという。一方、国際宇宙ステーションは確かに宇宙空間に存在し、宇宙の無重力空間でしか得られない、貴重なデータを送ってくれてくれている。単純に比較する種類のものではないが、お金の使い方という意味では宇宙開発投資のほうがよほど建設的であり、間違いなくそこには夢がある。(内田裕子)
29.5兆円はすべてを同時にやらなければ埋まらない
8月30日の選挙を前に今ほど日本の財政に注目が集まっているときはない。
経済が低迷し、国民の多くが雇用や収入に対する不安にさらされていると、「生活」「暮らし」というキーワードには当然、敏感に反応する。それを見越したように政治家は国民に耳あたりのよいことばかり訴える。「子育て支援」「消費税を上げない」「天下り全面禁止」。もちろん、国民の生活や暮らしを安定させることは政府の義務であるし、税金のムダ使いもこれ以上許すことはできない。
しかし、それらがどこまで現状を改善する効果があるのか。深いところまで考えられていないように思われる。そうしたことを考えるにあたってまず理解しておくべきことは、やはり日本の財源の現状だ。21年度一般会計を見てみると、日本の収入(歳入)は53.6兆円。それに対して出費(歳出)は83.1兆円。収入に対して使っている額が29.5兆円もオーバーしている。足りない分は債券を発行し、借金で補っているのが現状だ。このような借金体質が長い間、放置されてきた結果、ハーベイロード・ジャパンの「借金時計」 でもご覧いただけるように、日本の借金は800兆円を超えるまで膨らんでしまったのだ。
世界でも類を見ない危機的な財政状況の中でも、いまだ「増税はやむなし」「いや、税金のムダ使いをなくすのが先だ」など情緒的な議論から一歩も進まず、一方それとはまったく別の次元で「補助金」を求める国民がいる。どのようなプロセスで財政を健全化していくにしても、国民には今よりもさらなる我慢を強いることになる。そうなると、選挙というしがらみを背負った政治家主導でどこまで財政健全化が進むのか疑問が残る。
プライマリーバランスという視点で財政の状況を見ていくと、その困難さがよくわかる。これ以上、日本の借金を増やさないために、29.5兆円のオーバーをなくして、「入りと出」が合ったお金を使い方するという基本に立ち返ってみる。ここをどう埋め合わせていくかをあえてシンプルに考えてみよう。
まず、消費税を上げる。消費税は1%上げると2.5兆円の税収入が見込めると試算されている。仮に消費税10%にすると、12.5兆円の増収となる。
次に税金の無駄使いを減らすことを考える。現在、目の敵にされている国家公務員の数は現在65万人、人件費は毎年7兆7478億円となっている。自民党は国家公務員8万人の削減を公約したが、そこで削減できる金額は単純計算で9535億7538万円。しかも、平成27年までにという条件つきなので、年間約1兆円の出費を6年もかけて削減していくことになる。(ちなみに地方公務員はおよそ290万人、人件費は25.3兆円)仮に、国家公務員を瞬間、全員解雇しても削減できる税金は8兆円弱だ。
これらのような荒唐無稽なことをしても削減できるのはまだ20.5兆円だ。今、もっとも多く税金を使っているのは、社会保障費の22兆円だが、日本人の平均年齢は43歳。人口の6千万人が中年以上であるという日本は今後急速に高齢者が増加していき、何もしなくても社会保障費は毎年1兆円ずつ増えていくと試算されている。こんな状況では医療、年金、介護どこからも予算を減らしようがない。道路、ダムなどの公共事業はご存知の通り、まっさきに税金投入を減らされたわけで、現在の建設会社の窮状を見ればこれ以上削減するのは難しいことがわかる。
削減が厳しいなら、税収アップを望むしかない。頼みの綱は法人税だ。しかし、世界同時経済成長で、日本も経済成長2.3%を達成した2005年度から2006年度にかけての法人税収は14.9兆円で前年比1.6兆円増だった。2.3%の高成長を達成したとしても1.6兆円の増収だ。法人税率を上げるのは簡単だ。しかし、企業の利益を圧迫するような形になると、競争力を失うことに繋がるので企業も黙ってはいない。今後の経済成長は新興国が主役であり、それらの国は日本の技術をのどから手が出るほど欲しがっている。さまざまな優遇措置をちらつかせ日系企業の誘致に動いている。例えばシンガポールは金融立国からの脱却をはかるため、製造業を充実させようと圧倒的な税制の優遇を提示し日本企業に触手を伸ばしている。そんな調子で日本の企業が海外に出て行ってしまえば、雇用の場、法人税の税源すべてを失う可能性があり、本末転倒になりかねない。ここは大変に難しいところだ。
暗い話をするつもりは毛頭ない。しかし、冷静に財政の現状を見つめていけば、「消費税10%」「税金の無駄使いカット」「経済成長2%」はたった今から同時進行で行なわれるべきで、仮にすべてがうまくいったとしても29.5兆円のオーバーをなくし、「入りと出」を修正することは簡単ではないということかがおわかりになっただろう。仮に死力を尽くしてこの「入りと出」の差を埋め合わせることができても、単にそれだけのことで、800兆円にまで膨れ上がった日本の借金はまったく手付かずで残っているという恐ろしい状況なのだ。
「税金の無駄遣いをやめるのが先だ」「増税反対」「企業優遇はおかしい」など、政府への不信感からさまざまな意見が出ている。また、一方では「日本は借金もあるけど資産もある」「霞ヶ関には埋蔵金が100兆円ある」という楽観的な意見を持ち出し、税金のばらまきを正当化するむきもある。
しかし、現実はそんな生易しいものではない。もっと根本的な部分から国のあり方や税金の使い方を考え直さなければ、この国も未来は明るくならないだろう。特に若い世代は、この借金の影響すべてを引き受けることになる。やりたい放題やって、莫大な借金を次世代に残してリタイヤする世代に「NO」を突きつける危機感が必要だ。そうした現状を踏まえた上で政治家の主張を聞き、今回の選挙に臨んでもらいたい。(内田裕子)
日本国債 格上げの謎
先日、米国格付け会社ムーディーズが、日本の国債の格付けを上から4番目の「Aa3」から3番目の「Aa2」に引き上げた。このニュースに首をかしげたのはたぶん私だけではないはずだ。いうまでもなく、国債の評価というのはその国の財政状況の評価だ。本来「格上げ」ということなら喜ぶべきことなのだが、今回に関しては無感動だ。日本政府は緊急経済対策で10兆円超の赤字国債発行を発表したばかりだ。2011年までの達成を政府が約束していたプライマリーバランスの黒字化も、「達成は無理」という財務大臣の言葉で、驚く程あっさり先送りになった。政府の約束など所詮その程度だ。このような状況なので、日本の財政はよくなっているどころか史上最悪の状態であり、今は誰がどう考えても「格上げ」などされる状況ではないのだ。
ムーディーズの格上げの理由を見てもまったく説得力はない。「日本は多額の貯蓄残高があり、金融危機で安全志向も高まっている。今回発行される国債10兆円は問題なく吸収できるだろう」「金融危機における日本の財政悪化は一時的なものだろう」。こんな無責任な推測でGDP世界2位の国の格付けを上げたり下げたりされたら、本当にたまらない。これでは「米国債の信用低下による格下げを逃れる為、他国の格付けを引き上げている」と囁かれても言い訳ができないだろう。
それでなくても、日本で過去、国も企業も格付け会社にはさんざんな目に遭わされてきた。国債の格付けは一時期ボツワナ以下とされ、株式では2002年頃の相場低迷期、多くの企業が不要な格下げによって株価が下げ止まらず、一部の企業は倒産の危機にまで追い込まれていった。一貫したルールに基づいて、独立した立場で格付けが行なわれているなら「投資家保護」という意味で、格付け会社は重要な存在だ。もともと格付け会社というのはそのために設立されたはずだ。しかし、現在では違ってきている。冒頭でも述べたように格付けの理由は必ずしも納得のいくものばかりではない。また、格付けの上下には株価の変動がともなうわけで、やり方によっては企業にとっては「総会屋」より怖い存在となる。また、格上げや格下げの情報を事前に知ることができればいくらでも相場で儲けることができる。このように、さまざまな「不信感」を投資家に与えているのが、格付け会社の現状だ。
そして、極めつけは世界金融危機を引き起こした証券化商品の高格付けだ。投資不適格のデタラメなジャンク債に最後まで高い評価をしていたことに対して、反省もなければ誰ひとり責任を取ろうともしていない。あまりの自己都合、自分勝手に我慢の限界を超えた日本の金融当局が、ようやく格付け会社に対して規制強化に動き出した。今回の日本国債の格上げはその矢先の出来事だ。だから、格上げをされても嬉しくないのだ。
大量に発行される国債を売りさばかなければいけないという現実を背負っている財務省にとって、今回の格上げは渡りに船かもしれない。長年の低格付けの屈辱を解消できたことも、ひとつの勝利だろう。しかし、これで日本はまだまだ財政出動の余力があるなどと、自国の政治家だけでなく、アメリカやロシアに当てにされたらとんでもないことになる。まあ、これからアメリカ主導で世界的インフレに向かっていくということを織り込んでいるのなら、たしかにムーディーズの言うように「しばらくしたら日本は財政再建路線に戻る」というのは、まんざら嘘ではなくなるだろう。しかし、そんな他力本願的なことを当てにしていても始まらない。
どちらにしても、ご都合主義の国にいつまでたっても振り回される日本というのはいったいどうなのだろう。財政再建とともに、日本再建をしていく必要があるだろう。(内田裕子)
上海の変化と進化・いろいろ
上海に取材に出かけてきた。今回で10度目の上海だったが、いつ来てもこの大都市は活気に満ちていて本当に面白い。そして、その活気の中身は来る度に変化している。その、常に変わっていく上海に立ち会っていたいために何度も足を運んでいる。
今回、2年ぶりに訪れた上海にもいろいろな変化を感じたが、まずはファッション。上海の若い女性がおしゃれなのはすでによく知られている。流行に敏感な上海OL達は、『Ray瑞麗』『with秀』『ViVi?薇』、『Oggi今日風采』など日本のファッション誌をバイブルとし、最新のメイクや洋服を身に付けている。スタイルも抜群で着こなしも上々。その上に"やる気オーラ"も身にまとって、進化し続ける浦東のビジネス街を颯爽と歩いている。見ていて気持ちが良いくらい彼女達は前向きで誇らしげだ。
今回、大きく変わっていたのは男性のほうだ。上下ちぐはぐな組み合わせが目立っていた上海の男性のファッションだったが、今回、きちんとした身なりの人がずいぶん増えてきたという印象だ。若い男性の髪形などもずいぶん変わってきている。この進化はまだまだ続きそうだ。
あと、変化といえば、交通マナーが格段によくなっていた。上海名物のクラクション合戦や強引な割り込みがなくなっていた。上海人がみんな普通に車を運転していた。
過去に実際体験したことだが、「後ろに下がることは負けを意味する」という信念を持つ、負けず嫌いの上海人が、信号が壊れた交差点でどのような状態になるか、ぜひ想像して欲しい。取材中そこに巻き込まれた我々は、次のアポイントにはもう間に合わないだろうと覚悟を決めた。しかしその時、我々の車の運転手は強引に方向を変えて、"自転車用"の道路に乗りこみ、自転車とともに走り出したのだ。その驚くべき決断のおかげで大混乱を抜け出すことができ、さらには取材時間にも間に合ったのだが、このような状態をたぶん日本人は「めちゃくちゃ」と表現するのだろう。目を白黒させている日本人たちに向かって上海人運転手は極めて冷静にコメント。「上海ではこれは普通です」。しかしそんな「めちゃくちゃ」こそが上海の魅力でもあっただけに今回の変化は少々寂しい。というのはたまにしか訪れない異国の人間の無責任な発言か。
最後に驚いた変化は、街がすっかりきれいになっていたこと。屋台や露店、モノ売りなどは上海という街と一体になっていたのだが、それが姿を消していた。上海万博を前に規制が強化されたということだが、見慣れるまではどうももの足りなく映る。
しかし、どの都市にとってもオリンピックや万博は新しい文化を持ち込み、古い風習との決別を促す。そうやって都市は成長していく。よい悪いは別として。それにしても1元の串焼きを売っていた屋台のおじさんや、3元弁当を売っていた出店のおじさんは今、何をしているのか。侠西南路駅の角で、いつもブランドのバックや財布の写真が載ったチラシを握りしめて、必ず声を掛けてきたおじさんたちは田舎に帰ったのだろうか。「不要不要・いらないよ」と言わないですむのことが意外にも寂しい。日本人から稼いだお金で家族といっしょに幸せに暮らしているならそれはそれで良いのだが。
何はともあれ、みんなが勝手放題、思いのままに行動していた喧騒の街・上海は着実に進化している。
(内田裕子)
予測とうまく付き合う経営
自動車業界が大変厳しい。ここ数年の日本経済は自動車産業が支えてきたといっても過言ではない。日本の自動車メーカーは積極的にグローバル化を進め、世界経済の成長を取り込んで大きく業績を伸ばしてきた。中でもトヨタ自動車は「世界最適生産」 を実践し、増収増益を続け、純利益1兆円をたたき出す超優良企業として注目されていた。今年はGMを抜いて生産販売ともに世界一になる喜ばしい年になるはずだっただけに、急速な市場の悪化による減産、下方修正は多くの関係者を動揺させている。
09年の世界販売目標は当初1040万台だったが、米国金融危機後には800万台と下方修正した。現在さらに数字は厳しくなっているはずだが、先日の決算発表会では「どこが底かというのが見えない」という理由で、トヨタの渡辺社長は具体的な目標台数の発表は避けた。しかし、トヨタ自動車が大変危機的な状況を想定しているということは、今回の突然の社長交代で創業家へ経営が戻ったことを見れば容易に想像ができる。
今回の自動車市場の急変を見ていて思うのは、今後は「予測」ともっと慎重に付き合う必要があるのではないかということだ。振り返って見れば、ITバブル時も多くの企業が「予測」をもとに過剰投資をした結果、急速な下方修正となり、そろって破綻した。その時の予測は「世界人口の数%が携帯電話を持てば市場規模は何兆円」とか、「インターネットの拡大でPC何億台の需要創出」などがそうだ。何を根拠に算出しているのかわからない数字を、何の疑いもなく鵜呑みにし、都合よく解釈して経営をしたら痛い目にあうというのは、経験済みだったはずだ。
しかし、今回の自動車はほとんどそれと同じことを繰り返している。米国や新興国での需要を予測し、単純に数字を積み上げて、生産設備や生産拠点を拡大していった。
もちろん、そういった未来予想図がすべてデタラメとはいわない。新興国の自動車の需要は今後も間違いなく増えていく。しかし、これだけ経済がスピーディーに変化するようになると、予測は簡単に当たらない。それでなくても予測はいつでも期待しすぎるし、悲観しすぎる。どちらの予測も鵜呑みにしてはいけない。(内田裕子)
2008年を振り返って
後半の米国発金融危機を振り返ってみる。私たちはいくつかの教訓を得た。決して前向きな教訓ではないが、頭に叩き込むべき教訓だ。ひとつは国際基準、国際ルールというもののいい加減さだ。米国の時価会計の見直しの議論がそうだ。過去、日本がバブル崩壊で厳しい中、国際ルールの名の下に時価会計を無理やり採用させられ、大変苦しんだのは記憶に新しい。しかし、この度の危機で自分達が窮地に立たされると、あれほど強くルール遵守を主張していたにもかかわらず、さっさと放棄する。世界中が唖然として見ていてもお構いなしだ。もうひとつは米国の格付け機関の存在だ。リーマン・ブラザーズの格付けは最後までA(安定的)だった。そんなものには何の保障もなかった。このような米国のご都合主義を目の当たりにし、いい加減日本も国際基準に振り回されるのはやめにしたい。米国の一極集中時代が終わり、多極化時代を迎えるにあたって、日本基準をグローバル化するぐらいの強い意志を持ち、新しい国際ルールを定めていくパワーゲームに本格参戦するべきではないだろうか。(内田裕子)