財部:
ローソンの取材で新浪さんの社長室に伺った時、机の上に中内さんの本が置いてあったのです。「これ、いつも置いてあるんですか」と思わず聞いたら、「ローソンを理解することは、ダイエーを理解するという事で、それにはやはり中内さんを理解しなきゃダメだ」と言っていましてね。僕は妙に感動しましてね。
桑原:
中内さんは本当に偉大な方だったと思います。株主総会でも、良い時代の頃からの株主さんはいまだに中内さんを褒められます。
財部:
桑原さんは大変だろうなと第三者的に思いますよね。善きにつけ悪しきにつけ中内さんの影が出てきますよね。
桑原:
中内時代、ダイエーはずっとトップでこの業界を引っ張ってきました。ですから、私が社長として来たとき、「光り輝くダイエーの復活!」というスローガンを掲げました。それでだいぶ社員の気持ちはまとまった感じはしております。もちろん、結果がついてこなければいけませんが。
財部:
そうですよね、個人的にはもう一度ひっくり返してほしいという気持ちがあります。
社員の「小売業はライフライン」という使命感の強さに感動
桑原:
このはがきを是非見ていただきたいのですが、3月11日の地震が起こったあと、4月25日なのですけど、ちょうど地震から1ヵ月半ぐらい経った頃、被災者の方より頂きまして、東北弁で、「ありがど」、「店開げでくれで」っていうね、内容が書いてありましてね。私の名前は知らないので、社長様へ、被災者一同って。これは本当に感激しましたね。
財部:
震災によって自社のアイデンティティーを確認した会社はたくさんありますが、小売チェーンはライフラインですよね。
桑原:
ダイエーの社員の使命感の強さ。こういう感覚っていうのは商社ではまず感じられなかったことです。商社はどうしてもBtoBですから、今回のような、切羽詰った個人の生活という面はなかなか感じられない。もちろん商社もいい面がたくさんありますけど、ダイエーにもいいところがありますよね。これはうちの従業員、パートさん含めて、私が感激したところでしたね。
財部:
阪神大震災の経験値があったことで、ダイエーならではのものがあったのでしょうね。
桑原:
そうですね。緊急対策本部を立ち上げて、お客様や従業員の生存、安全に問題がないことが分かれば、あとはいかに早く店を開けるかということでした。全社をあげて取り組んだのですが、エスカレーターもエレベーターも動かなかったので、1階と地下1階、地下2階を開けて、水や米など重いものはみんなでバケツリレーで運んで、なんとか13日の朝からお店を開けることができました。
財部:
そうだったのですね。では完全に店を閉めていたのは11日の午後と、12日だけということですよね。それはすごいですね。
桑原:
はい。すぐに再開したのはダイエーしかなかったので、お客様が集中されたのですが、
いっぺんにお店に入っていただくと危険なので、並んでいただいたのですが、長い人だと五時間待ちということになってしまった。ご案内も含めて、本当にうちの社員たちは頑張ってくれました。お客様から「ありがとうございます」って言われると、言われた従業員もそれで感激して、「この仕事をやっていて良かった」って、お互い感謝し合う良いサイクルができまして、頑張れたのだと思います。
財部:
ダイエーの原点が生きている感じがしていいですね。
桑原:
中内さんの時代から脈々と作られたものだと思います。この大震災をきっかけとして、小売業というものの、いい意味での見直しがあったのではないかと思いますね。
お互いを敬いあって、自分の意見を通じ合わせる
財部:
プライベートな部分もお話を伺いたいのですが。好きな映画はフィールド・オブ・ドリームス。桑原さんはロマンチストですね。
桑原:
私はアメリカに二回駐在したことがあるのですが、自動車関係でデトロイトに赴任したときは日本のエンジンを売っていました。最大の取引先がインディアナ州にありまして、広大なトウモロコシ畑を三時間半ほどかけて、よくクルマで往復していたのです。後に映画が公開されたとき、野球が好きだったこともあり観てみたら、舞台になっていたのがトウモロコシ畑。アメリカのスケールの大きさが良く出ている映画でした。この映画のテーマは「親子」でして、亡き父親に最後まで反抗してきた息子役のケビン・コスナーが、ある出来事をきっかけにトウモロコシ畑をつぶして野球場を作ってしまう。すると、その野球場に球界を追放された伝説の野球選手らが(死者たち)が現れて来るのですが、最後、その中に自分の父親を見つけるのです。それで主人公は父親も頑張っていたのだと理解して、いっしょにキャッチボールをするのです。何回も見たのですけど、これはいいなと。いつか自分の息子たちもそういう風に思ってくれるのかな、なんて考えたりしますね。
財部:
なるほど。色々なバックグランドがあるのですね。
桑原:
そうなんです。何度も通ったトウモロコシ畑の風景、好きな野球、そして親子関係。私も父親に対して反抗したり、歳をとってからも、なんであんなことやり続けているのだろう、なんて理解できなかったり。財部さんもそうじゃないですか。
財部:
まったくその通りです。うちの親父は戦時中、満州にいて満鉄総裁の秘書をやっていたのですが、さまざまな人間模様がある中で親父を非常に信奉してくれていた日本人がいたのです。10年前、事務所に知らないおじいさんから電話がかかってきて、「あなたは財部巌さんの息子さんですか、テレビを見ていたらそっくりだったので」と。自分は満州であなたのお父さんに大変世話になったと言うのです。親父は僕が学生の時に亡くなっているので、親父を理解するどころか、こんな親父があるか、という反抗ぶりで、そのまま亡くなったので、僕は親父のことを全然知らなかった。親父の若い頃の話を聞いてみたいと思ってそのおじいさんに会ったのですが、話を聞きながら、まったく知らなかった親父の姿を知って思わず泣いてしまいましたね。
桑原:
私もそういう父親でありたいですね、死んだ後でもいいから息子にそう思ってもらいたいと思いますね。
財部:
あと、宝物はアメリカ50州の25セントコインということですが、これはどういうことですか。
桑原:
この記念コインの発行はビル・クリントンの時代に始まりまして、1年間に5州ずつ、独立した順番で25セントコインを発行していったのです。私がアメリカにいたのが2006年から2008年の3月末だったのですが、帰国するまでに40州分くらいしか集められなかったのです。そのまま日本に帰ってきたのですが、アメリカで一緒に仕事をしたアメリカ人が、日本へ出張の度に1つ、2つと持ってきてくれましてね、50州分が完成したのです。これは本当に人間の絆というものを感じていまして、僕の大事な宝物です。
財部:
そういうことですか。
桑原:
なぜ、そこまで思うかというと、僕がニューヨークにいた頃、丸紅の米国会社は人事訴訟を抱えていまして、訴えられている内容は事実無根だったのですが、その請求額がすごい金額なのです。でも、そのときに何が原因でここまでこじれているのかと考えたら、やはりコミュニケーションが不足していたのだと思いました。ですので、もう肩書きとか関係なく、ざっくばらんに話そうよ、というところから始めました。そうするとやはり気持ちが通じ合います。それを続けていった結果、利益目標も含め、3年でやろうと思っていたことが2年で実現できました。みんなで頑張った結果です。そういう背景があるので、「桑原さん、コイン集めていたよね」って、みんながちゃんと知ってくれていて、日本にも持ってきてくれた。それで50州のコインがそろったというのが嬉しいですよね。一般的な価値でいえば25セントが50枚ですから12.5ドルですが、僕にとっては大変価値があるものです。
財部:
お話伺っているとアメリカが本当に好きなのが伝わってきます。そういう良い思い出があることも要因なのでしょうけれどね。休みが出来たら行きたい場所もマンハッタンと書いてありますね。
桑原:
私は世界77ヶ国に訪問したことがあるのですが、世界全体を見回しても、本当に大都市の雰囲気を持っている都市ってマンハッタンしかないのではないかな、という印象があります。住んでいたということもありますが、マンハッタンはいつでも行きたいという気持ちがあります。例えば、ロサンゼルスも大都市ですが、行ってみると高速道路網とか、たしかにすごいのですが、ちょっと行くとすぐ郊外になってしまってなんか中途半端な感じがします。ヨーロッパもロンドンやパリも歴史があって大都市ですけどね、初めてニューヨークに行ったとき、飛行機から見た摩天楼が本当にすごくて、もう、「マンハッタンがすごい」って思っちゃったのが大きいのかもしれませんね。
財部:
あと座右の銘は「敬人通意」。おっしゃるとおりだなと思いましたが、これは造語なんですね。