株式会社三陽商会  代表取締役社長 杉浦 昌彦 氏
好きな本:寺田寅彦氏の随筆集
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お客様がこの服をいつも着ていたいと思う、最高の一着をつくる

株式会社三陽商会
代表取締役社長 杉浦 昌彦 氏

財部:
今日は、松竹の迫本淳一社長からのご紹介ですが、お2人のご関係について教えて下さい。

杉浦:
迫本社長とはもう40年ぐらいの付き合いで、高校の時からずっと一緒です。私はサッカーをやっていて、彼はハンドボール部に所属していました。

財部:
塾高(慶應義塾高等学校)ですよね。私の息子も中学・高校と塾高で、サッカー部に所属していました。

杉浦:
そうですか。「経営者の輪」で登場されております、永谷さん(永谷園会長)も1級下です。高校ではサッカー部でした。

財部:
永谷さんもそうだったのですか。私は、慶應は大学だけですが、息子の世界を見ていると、中学・高校のコミュニティには特別なものがありますね。

杉浦:
意外と続いています。50歳を過ぎてから、昔を懐かしがって集まることが多いですね。私の場合も、20、30代の頃は皆忙しくて会っていなかったのですが、40代半ばからこの10年ぐらいは少し時間ができたので、ワイワイガヤガヤやっているような感じです。

財部:
迫本さんとは、クラスもご一緒だったのですか。

杉浦:
クラスは違いますが、高校時代にはよく遊んでいました。大学では学部は一緒でした。当社はアパレルをやっている関係で、そういう高校時代からの仲間から「どこかの連盟の(ユニフォームなどを)作ってください」とよく依頼されるのですが、彼は「お前、作ってやれよ」と言うのです。「濃い」年代だったせいか、私たちの仲間にはそういうざっくばらんで面白い方がたくさんいます。

財部:
そうなんですか。皆さん、いずれ劣らぬ実力者揃いですね。

この時代だからこそ「モノを作って売る」強みを活かす

杉浦:
企業によっては慶應出身の二世の経営者が多いのですが、私はそういうものはまったくなくて、創業一族でもありません。私は愛知県生まれで、父は銀行員です。三陽商会の創業者は吉原信之という人物で、昭和17(1942)年に会社を興しています。レインコートを売り出したのは昭和21(1946)年で、戦後不要になった防空暗幕の生地を題材にしてコートを作りました。「三陽レインコート」と言えばわかっていただけるのですが、会社名がアパレルのイメージから少し離れていたところがあり、三陽商会は何をやっている会社なのかがよく理解されていなかった時代が長かったかもしれません。

財部:
そうなのですか。

杉浦:
昭和44(1967)年に四谷に本社を建てて(四谷旧本社ビル、東京都新宿区)、創業の地である神田から移転してからずっとそこにいたのですが、前社長の発案でこの場所(汐留ビルディング、東京都港区)に移って約3年半が経ちます。9月16日に情報を開示したのですが、また四谷に戻ろうかと思っています。

財部:
それはなぜですか。

杉浦:
オフィスが21階から24階にあるのですが、一言で言えば、アパレルというのは、地に足が着いていた方がいいのではないかということです。商品サンプルの上げ下げにしても、50数メートルもある重い原反(製品の材料になる生地)をこんなところまで上げるとなると、エネルギーの消耗たるや大変なものです(笑)。商社や工場さん、生地屋さんなどの、ものづくりに関わる人たちとの距離が少し遠くなるのではないかということもあります。

財部:
そういう理由でオフィスを移転されるというのは、画期的なお話ですね。

杉浦:
四谷の旧本社も、かつては「レインコートさん」と呼ばれて馴染みがありました。暖冬の今でこそ、レインコートは防寒よりもファッションというイメージが強くなっていますが、「三陽レインコート」としても、その部分をもう少し追いかけなければならない時期になっています。会社自体も、サブプライム危機やリーマンショック、東日本大震災、原発事故など、繰り返し押し寄せる荒波の中で揉まれていますから、襟を正してもう一度四谷でやってみようと考えました。

財部:
そういうお話は初めて伺いました。新しいビルに転居して4年強で、地に足を着けるために四谷に戻られるのですね。

杉浦:
約3年前に発表した中期経営ビジョン中に、「効率経営の推進」という項目も入っていますから、賃料についても、現在のレベルを経済的に見ていく必要があります。社員ともいろいろ話しながらやっていますが、それほど反対が多いわけでもありません。

財部:
実は、資料をいろいろと拝見し、さまざまな思いを持って今日はお伺いしているのですが、御社の事業の中でバーバリーはどんな位置づけになるのでしょうか。

杉浦:
昭和45(1970)年に、バーバリーの輸入コートの販売権を含めてライセンス契約を結んでから、ちょうど40年になります。長い期間、日本の市場で(品質、価格など)安心ブランドとして育ててきて、ライセンスブランドとして成功してきたと思います。

財部:
バーバリーの中にも、いろいろなカテゴリーがありますよね。

杉浦:
子供服から紳士物、婦人物にまで広がっていて、その中にブルーレーベルやブラックレーベルという日本独自のブランドがあります。その他にもゴルフウェアやキャリア(仕事を持つ女性)向けのウェアなど、さまざまなディビジョンがあり、それらを集積するとかなりのボリュームになります。

財部:
資料を拝見すると、ブランド戦略においても、生産においても素晴らしいものがありますね。

杉浦:
川上には大変上質なものを作っている部隊がありますし、川下では百貨店を中心とした小売業態の部分でもかなりのインパクトがあります。それらをうまく融合して、末端の消費者であるブランド支持層に何らかの形でメッセージを伝えていかなければなりませんので、消費者に支持される商品をクリエーションすること。(品質、素材、縫製)あらゆることに気を配り、ものづくりに力を入れています。

財部:
杉浦社長の過去のインタビュー記事などを拝見すると、驚かされるような発言がいくつもあります。たとえば、日本国内における生産を見直していくというのは、非常に斬新な考え方ですね。

杉浦:
最近、日本のものづくりに関して、円高で工場が海外に移転するケースが増えたり、設備投資をするにも海外が良いのではないかと言われたりしています。モノを作る匠の技術や技に加え、素材を作るメーカーについても、今産地が疲弊している状況にありますが、その一方で、「メイド・イン・ジャパンは捨てたものではない」ということが、海外でも思われていると思います。

財部:
そうですね。

杉浦:
(日本製品は)やはり重要な部分に使われており、商品の品質などについて言えば、日本で作られたものはいまだに誇れるものだと思います。そういうものが、いろいろな理由で消えていくのが非常に惜しいのです。特に、当社は協力工場にもお世話になっていますが、自社工場の宮城県石巻市にあった縫製子会社のサンヨーエクセルが震災で被害に遭い、操業を停止せざるをえなくなりました。当グループの製造拠点はほかに、コートの縫製を行っているサンヨーソーイング青森工場、紳士用スーツの縫製工場である福島市のサンヨー・インダストリー、レディースを手がける新潟サンヨーソーイング、サンヨーエクセルおよび岩手サンヨーソーイングの5社5工場があります。岩手サンヨーソーイングは、津波で大きな被害を受けた山田町(岩手県下閉伊郡山田町)にありますが、高台だったので助かりました。現在は通常通り稼働しています。やはり目が届くそういう工場で作られた製品の仕上がりは、非常に目を見張るものがあるので、しっかりと稼働させていきたいと思います。

財部:
三陽商会さんはフランドルさんと一緒に、国内の産地や縫製工場に根付いた「日本の技術」を守る共同プロジェクトを立ち上げられていますね。

杉浦:
はい。工場も40年経つと世代が変わります。特に、20代の頃から働いてくれている60〜65歳の従業員がこれからどうなるのかという時期にあたっています。そんな今だからこそ、産地や工場に根付いたものを継承し、日本のものづくりの火を消してはならないと思うのです。

財部:
はい。

杉浦:
一方、川下系ではファストファッションが売上を伸ばしていて、ユニクロさんも、流行を取り入れながら低価格に抑えた商品をかなりのボリュームで売ってきています。われわれはOEMと言っていますが、工場に委託して製品を作ってもらうような販売形態では、デザイナーもパタンナー(型紙を制作する人)も不要です。言ってみれば、会社にそういう部隊を持たないでモノを作るシステムが、ここ10年ほど、特に商業施設を中心としたブランド、店舗で盛んになりました。しかし最近では、中国の沿岸部の人件費が相当高くなっており、生産拠点がベトナムやインドネシア、バングラデシュなどに移転し始めています。そうなってきますと、ものづくりが思うようにいかなくなります。日本人の目は非常に肥えていて、本当に完璧な出来映えが要求されるような製品を求めていますから、そういうものに対応していくためのクオリティコントロールがうまくいかなくなると思います。

財部:
なるほど。

杉浦:
話は変わりますが、われわれの場合、百貨店での売上高が約8割を占めています。ご存じのように、かつて9兆数千億円もあった全国の百貨店売上高が、今では6兆円台の攻防になり、ピーク時から3兆円強もダウンしています。衣料品の売上高は全体の35%程度を占めるので、衣料品自体は約1兆円も落ちていることになります。

財部:
そうなんですか。

杉浦:
その意味で百貨店は、もう少し差別化された、同質化していない良い商品を売りたがっているのではないかと思うのです。私は、日本の百貨店は捨てたものではないと考えていますが、その理由の1つに、マーチャンダイザーの編集力、いわば「MD力」があります。これは欧米の百貨店を見ればよくわかるのですが、日本のマーチャンダイザーには、「MD力」という言葉が固有名詞になってもいいぐらい、良いものを集める力、すなわち編集力があるので、そこを応援していきたいと思っているのです。