東日本旅客鉄道株式会社 取締役会長 大塚 陸毅 氏

財部:
本業を中心に、ビジネスをどう広げていかれたのですか。

大塚:
たとえば商業施設については、まず駅を中心にして徹底的にやるということですね。まさしく「選択と集中」で、経営資源を駅に集中投入し「駅ナカビジネス」を始めました。そしてもう1つは『Suica』です。私は「これからの事業展開において、『Suica』は絶対に面白い存在になる」と、事あるごとに話してきました。

財部:
『Suica』は改札システムとしても、電子マネーとしても非常に革命的なサービスですね。

大塚:
実は正直なところ、私は当初、『Suica』についてあまりよく理解できていませんでした。私は常務取締役時代に技術関係のセクションを担当し、1ヵ月に数回昼飯を食べながら、各担当者が手がけている研究開発の状況について説明を受けていました。その時に「非接触式の改札システムを作りたい」という社員がいたのです。当時は自動改札システムができたばかりの頃で、「今できたばかりの自動改札システムを非接触式にすることが、どれだけの意味を持つのか」とも思いましたが、「いろいろなことをやってみたらいいのではないか」と担当者に話しました。

財部:
そうなんですか。

大塚:
それからしばらくして、私が副社長を務めていた時に、その開発担当者から「非接触式改札システムがものになりそうなので、テストを行いたい。そのため少し技術開発費が必要になります」という申し出がありました。「数億円ぐらいかかるのか?」と聞くと、彼は「桁が違います」と言いました。それで私は「それだけの投資が必要ならば、先のこともよく見なければならない。単なる今の改札機の取替えや、接触式から非接触式への変更というだけでは、投資効果が充分とは言えない」と答えました。すると、彼は「実はこれはカードでいろいろなことができるシステムです」と言って、そのシステムでできることを模造紙1枚にびっしりと書いてきた。それが、今『Suica』で提供しているサービスのすべてです。私はそれを見て「こういうことが本当に、1枚のカードだけでできるようになったら面白い」と思い、テストを実施しました。結局、これがものになり、2001年11月に『Suica』サービスをスタートさせたのですが、今やカードの発行枚数は、PASMOを含めるとおよそ5000万枚に達します。最初は駅構内でのカードの利用から始まり、加盟店舗数も約11万店にまで増えました。当グループの新しい経営計画では、『Suica』を今後の1つの柱として位置付けています。

財部:
『Suica』は今、もの凄い勢いで普及していますよね。

大塚:
私たちは当初、まずは「交通系の共通化を急がなければならない」と考えました。そこで首都圏の私鉄各社の賛同を得たあと、バス協会にも『Suica』を採用していただきました。その後、他のJRグループ、首都圏以外の私鉄各社にも『Suica』が広がり、タクシーでも『Suica』を利用していただけるようになっています。その一方で、電子マネーの分野も順調に伸びており、今後さらにサービスが広がっていくと思います。他のカードでできることで、『Suica』にできないことは何もありません。しかし、カードで電車に乗ることができるのは『Suica』だけです。したがって、最終的にカードが淘汰されて2枚だけが手元に残るとしたら、その2枚のうちの1枚は『Suica』になるのではないかと、私は思っているのです。

財部:
私も、かなり早い時期に、広報の方から『Suica』の説明を受けていました。当時は電子マネーの勃興期で、さまざまなカードが登場してきていました。その中で私は、圧倒的多数の人々が日常的に電車を利用しているのだから、『Suica』が優位に立つだろうと思っていましたが、ここまで一気に伸びるとは予想外でしたね。

大塚:
やはり便利なのでしょう。小銭を持たなくてもいいですからね。いわば『Suica』はストレスフリーのカードであり、いちいち券売機の駅名表示を見て、目的地を探して切符を買い、改札を抜けていくという手間が省けます。そのまま改札に行ってカードをピッとやってしまえば、自動的に料金を引き落としてくれるので、余計なストレスがかかりません。特に年配の方にとって、駅名表示を見て目的地を探すのは、非常に面倒だと思います。そういう煩わしさがなくなったということが一番大きいのではないでしょうか。

財部:
そうですね。これを1枚持っていれば、どこにでも行けて、さまざまな施設でショッピングも可能という自由度は、おそらく世界中のどこにもないでしょう。もしかすると『Suica』は本当に世の中を変えるかもしれません。

大塚:
そうですね。こういう形で利用できるカードはどこにもありません。そこで私たちはできれば『Suica』を世界中に広げたいと考えています。釈迦に説法ですが、今ありとあらゆるグローバル・スタンダードが欧米で作られています。鉄道についても、さまざまな面でヨーロッパの方式をグローバル・スタンダード化しようという動きがあるのです。そういう中で、当社はグローバル・スタンダードの推進を担当する戦略室を作り、なんとか日本発の世界標準を認めさせようと努力しています。やはり、こういうことをやらないと、結局、他のが広がらなくなってしまいますからね。

財部:
日本は、グローバル・スタンダードへの対応について、非常に遅れていますよね。

大塚:
その意味で、最近よく言われる「ガラパゴス化」について、実は若干の反省があるのです。たとえば新幹線の海外への売り込みですが、私どもの中には、新幹線は1つのトータルなシステムであるという考え方があります。つまり、単品同士を組み合わせていくのではなく、全体をきちんと設計し、運行システムから制御システム、メンテナンスのシステム、さらにはチケッティングのシステムまでをすべてパッケージにして運用するのです。そのため、運行が非常に正確で安全性も高いのですが、そこまで全部やってしまうと、非常に精緻で立派なシステムができる反面、値段が高くなってしまいます。

財部:
そうですね。

大塚:
ところが、新幹線の導入を考えている海外のお客さまからすると、少しでも安くしてほしいという要望がありますから、よりカスタマー・オリエンテッドに徹し、先方のご要望に沿った形でシステムを作り上げていくことが必要になってきます。ただし、どうしても譲れない、妥協できないのは安全性です。その安全性の部分以外を多少削ったりする余地はあるのではないか、ということを最近考え始めています。

財部:
新幹線を始めとして、今日本製品を海外に売り込もうとする中で、正確性が1つの大きな売りになると言われています。でも実際は、鉄道の場合で言うと、多少の運行の遅れがあっても問題にならないことが多いですね。その意味で、やはり相手国のマーケットに合わせてコストダウンをする方が良い、という考え方もあると思います。

大塚:
おそらく10分程度の遅れは、ほとんど問題にならないでしょう。JR東日本では災害時なども含めて年間の遅れの平均は1.0分ですから、レベルが違うのです。ですから、たとえば海外に新幹線を売り込むにしても、もう少し相手国に合わせてシステムを提案していく方がいいのかもしれませんね。しかし、鉄道に関しては、繰り返しになりますが、安全性は絶対ですから、これだけは頑なに守り続けていきたいと思います。

財部:
最後に、今年の9月に米カリフォルニア州のシュワルツェネッガー知事が来日し、新幹線に試乗されましたが、どんな反応だったのでしょうか。

大塚:
私は直接お会いしていませんが、感触は良かったと思います。2011年に投入予定の新型高速新幹線車両E5系に試乗していただいたのですが、静かで乗り心地もいいです。ただし高速鉄道計画決定にあたっては他の要素もあるでしょうし、そのあと韓国にも行かれましたから、いろいろなものを見てから決めようということではないでしょうか。

財部:
そうですね。

大塚:
アメリカの場合、高速鉄道の導入に当たり、雇用の場ができるだけ広がるようにしたいというのも重要な要素のようですから、それについても考えていかなければなりません。加えて、日本の鉄道と海外の鉄道の大きな違いですが、アメリカも含めた海外の多くの国では、鉄道会社が責任を持ってメンテナンスをするという発想があまりありません。私どもとしては、こと鉄道に関しては、メンテナンスが安全性に大きく結びついていると考えていますが、そのメンテナンスの重要性について、各国が共通の認識を持っているとは必ずしも言えません。ですから、今後どの国に進出するにしても、相手国とよく話をしたうえで、万全なメンテナンス体制を構築するためのお手伝いをしていく必要があるでしょう。製品を作ったら終わり、ということでは駄目なのです。そういう点から言うと、日本は非常に安心できる国ではないかと思いますね。

財部:
私もずいぶん海外取材をしてきましたが、その点で、日本に勝る国はありません。自分の国の物だから良い、というのではなく、相手国の事情を客観的に見て、これほど物事を緻密に考え、丁寧に物事を運んでいく国はないですね。先ほどのお話にあったホスピタリティも同様で、やはり日本人だからこそできることは、本当に大きいですよね。それにしても、なぜ政界にだけ、そこが欠けているのでしょうか。

大塚:
とはいえ、現実の政治について、ああだこうだと言っていても仕方がありません。昔は「経済一流、政治三流」と言われたこともありますが、最近ではその経済も元気がなくなりかけています。ただし政治主導は政治主導で結構なのですが、やはり経済が政治を支えていくぐらいのつもりでやっていかないと、結局そのツケが、経済界ひいては社会、最終的には日本全体にまで回ってきてしまうでしょう。ですから今後、経済界の役割が従来とは違う意味で、重くなっていくような気がします。

財部:
私も本当に、財界がその部分を支えていかないと駄目だと思いますね。

大塚:
戦後の復興期を通じて、日本経済は比較的順調に成長してきましたが、実はあの時代に苦労し、日本を立派な国にするために頑張ってきた人々がどの業界にもいたのです。政界も財界も、官界も皆そうでした。ところが、こんなことを言うと語弊があるかもしれませんが、おそらくある段階から、過去の遺産で食いつないできたような時代が、今日まで続いてきたのではないかと思います。もちろんそうではない人たちもいますが、全体として日本はそういう状況にあったのではないでしょうか。それはまさに、私どもの責任でもあるのですが、この辺りで少し目を覚ましてもう一度、やるべきことをきちんとやっていかないと、本当にお先真っ暗な状態に陥ってしまうでしょう。かといって、現状を嘆いていても仕方がないので、何をするべきかをとにかく考えましょう、という話になるのですがね。

財部:
そういう意味では、渡さんとも非常に共通する思いがあるのではないでしょうか。

大塚:
やはり信念というものが本当に大切ですね。(JXホールディングスが生き残りを懸けて行ってきた数々の合併にしても)社員の皆さんは非常に心配されたことでしょう。しかし、皆が心配に思うことであっても、それが本当に重要なことなら、それを「どうしてもやるぞ」と言って推し進めていくのがトップの仕事だと思います。

財部:
危機を乗り切るうえで、トップの信念や「Will」(意志)がいかに大切かということですね。

大塚:
(トップの決断とは)結果を問われることであり、明確ですから、トップがやると言えば、最終的には皆が安心してついていくのです。組織がいったんそうやって動き出せば、もの凄いエネルギーを発揮するものです。その意味で、企業には人材が数多くいるわけですから、そこを動かしていくことが一番大事な気がします。その点では、渡さんは非常に素晴らしい経営者だと思いますね。

財部:
私も取材の際、同じようなことを渡さんに申し上げました。社員の方にしてみれば、1999年の三菱石油との合併も、一生に1度あるかどうかの大変な作業だったのに、さらに新日鉱ホールディングスとも経営統合するという、大事業を成し遂げられたわけですから。

大塚:
そこまでやらないと生き延びられないという、危機感を常に持たなければいけないのでしょうね。

財部:
今日本全体が、そういう危機感を持てるかが問われていますよね。

大塚:
危機感と言えば、面白い話がありましてね。水を張った鍋にカエルを入れて、徐々に温度を上げていくと、カエルは外に飛び出そうとしないで死んでしまうという、「茹で蛙」という例え話をご存じだと思います。ところが、あの話は嘘で、カエルもお湯が熱くなったら逃げていくらしいです。ということは、危機になっても何もしないというのは、カエルよりも劣るということになりますね(笑)。

財部:
なるほど。それは新説ですね。本日は、長時間にわたりありがとうございました。

(2010年10月4日 東京都渋谷区  東日本旅客鉄道本社にて/撮影 内田裕子)