ツネイシホールディングス株式会社 神原 勝成 氏
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雇用を守り、地域社会と社員に感謝しながら105年やってきた

ツネイシホールディングス株式会社
代表取締役社長 神原 勝成 氏

財部:
まずは、今回ご紹介いただいた穴吹工務店の穴吹英隆社長とのご関係についてお聞きしたいのですが。

神原:
穴吹さんとお付き合いさせていただくようになってから約10年が経ちますが、穴吹さんの面倒見の良さは大変なものです。僕が社長に就任して間もない頃、「まだ経営のことがよくわかってない」と言ったら「面白い異業種交流会があるよ」ということで、穴吹さんの推薦で、その会に入らせていただきました。非常に感謝しているのは、僕がグループの不採算事業の整理で父親と喧嘩している一番大変な時に、その異業種交流会の勉強会で相談に乗ってくれる仲間ができたんです。

財部:
神原さんは、穴吹さんにとって弟のような感じですかね。親しいというよりも、かわいがっているというか――。

神原:
穴吹さんは僕だけではなく、異業種交流会の若手メンバーの面倒もよく見てくださっています。飲み会に行っても、費用を全部持っていただいたりする豪快な面がある一方で、人との縁というものを非常に大切にされる方ですよね。

財部:
サラリーマンの世界では、なかなかできないことですね。

神原:
そうですね。経営に対する思いも、非常に強いものをお持ちですし。なかでも地元に対する思い、地元とともに発展していこうする気概については、穴吹さんのところは高松でダントツですよね。

財部:
そうですね。穴吹さんの研究所(穴吹住環境デザイン研究所)には行かれましたか?

神原:
行きました、凄いですよね。

財部:
そこでは創業者である父親をリスペクトしていて、ちょっと感動しましたね。単純に理念を形にしてメッセージを伝えるというのはよくあることですが、そこに「原点」という言葉を据えて見せているわけですから、少なくとも周辺の人々には、同社にとって一体、何が大切か、それを見れば明確に理解するでしょう。

神原:
僕なんか、まだちょっと、その域には達しませんよね。まあ、父親が元気で生きていることもありますが、凄いですね、穴吹さんは。参加している勉強会はオーナー系の二代目が多いのですが、全国には個性の強い、すばらしいオーナー経営者がいるものですよね。

財部:
トヨタ自動車の本当の強さも、まさにそこにありますからね。誰もが、トヨタはグローバル企業で、上場企業の鑑のように思っていますが、同社は完全なるオーナー企業。松下電器もかつてはそうでしたが、トヨタの場合、依然として豊田家が中枢をおさえているし、全国のディーラーに話を聞いても、「ウチはいざとなったら豊田家につきますよ」と皆、口にします。歴史を振り返ると、トヨタ自動車ではなく、豊田家とともに生きてきたということなんですね。

神原:
ディーラーさんが豊田家につくというのは凄いですね。

「100年構想」で会社の経営を考える

財部:
ツネイシさんは、100年以上の長い歴史をお持ちですよね。僕がとても興味深く感じたのは、造船業は非常に難しい商売で、この100年の間に、どこの造船会社も潰れかけたり、大きな山谷をいくつも経験しています。しかも世間からは「造船業イコール重厚長大産業」と、雑駁なイメージで捉えられがちですよね。

神原:
はい。

財部:
にもかかわらず、材料の仕入れから為替相場に至るまで、ビジネスを行っていくうえで読むべき変数がたくさんある。考えられるすべてのマーケットの値動きを複雑に絡めながら、先行きをみてコストを計算しなければならない。それでいて、お金をもらうのは製品ができあがってから。つまり、受注から数年先に利益が上がるというビジネスですよね。私はおそらく、こんな商売はほかにないだろうと思うのですが、その中でいかに経営を安定させるかという努力こそが、造船業界における経営の本質なんでしょうね。

神原:
そうですね。当社は、1903(明治36)年に海運業を創業したことから始まっています。当時、北九州から産出された「ブラックダイヤ」、すなわち石炭を輸送していましたが、要するに海運成金ですね。その頃、山下汽船(現・商船三井)さんなどもありましたが、その小さな部類です。

財部:
そうなんですか。

神原:
そして船の数が次第に拡大していく中で、持ち船を他の造船所で修理するのもどうかというので、自前で修理工場を作り、その流れで新造船を手がけるようになりました。大正初期(大正2年に初の新造船『第二天社丸』を建造し、同6年に塩浜造船所を開設)のことです。ウチの先代の話をいろいろ聞いていると、とにかく前向きにチャレンジ、チャレンジの繰り返しなんですよね。

財部:
ほお。

神原:
僕も会社に入るまで知らなかったのですが、当社はかつてパプアニューギニアで造船所を建設し失敗したり、南米ウルグアイでも造船所を経営していました。とくに祖父(神原秀夫氏)はちょっと翔んでいる人で、30代半ば(1955(昭和30)年)でここの地元の初代沼隈町長をやっています(旧沼隈郡沼隈町は2005年に福山市に編入)。その当時、祖父は「50年後に食糧危機が来る」と言って南米に土地を買って、「日本の高度成長はそうすぐには来ないだろう」と、地元の約300家族を南米パラグアイやウルグアイに移民させているんです。

財部:
へえ、そうなんですか。

神原:
さらに、祖父は、「(町民たちを)移民させただけではいかん」と言って、味噌や醤油を作ったり、造船所や牧場をやったり、米を植えさせたりしたんです。いろいろなことに挑戦し、たくさんの失敗を繰り返しながら会社が大きくなってきたんですね。また、後を継いだ私の父(神原眞人氏)が社長になってから、造船不況を2度ほど経験しましたが、父は「首切りをせずに雇用を守る」ということで多角化を行いました。その中で失敗したものの1つがレジャー部門で、同部門を整理しようという時に、僕が29歳で社長になったんです。いわゆる金融ビッグバンが始まって2年が過ぎた頃でした。

財部:
1998年ですよね。

神原:
ええ。もう毎日、レジャー部門の整理の話で大喧嘩です。その時、父がとても面白かったのは、「わしは会社を潰していない。トライ・アンド・エラーで失敗しながらも、会社を、お前の爺さんの時の30倍にしたんだ」と言うわけです。「何がいけんのじゃー、銀行にいうて来い」とね(笑)。

財部:
はあ――(笑)。

神原:
事業に対する思いが非常に強くって、ホント凄かったですよ。結果的には造船業も、そういう浮き沈みがあって、その中でなんとか生き残りました。運も含めて、これだけの長い歴史のある企業にまでなっているんだと思いますが、その根っこの部分は、うちの企業理念に「人材第一主義」とある通り、社員を大切にしてきた。そのことについては代々、非常に強い思いがありますね。

財部:
そうですか。

神原:
雇用を守るとか、地域とともに発展することは、強く意識しています。社員に感謝しながらマネジメントしてきたことの結果が、「100年企業」へとつながっているのだろうと僕は解釈しています。今僕が会社で言っているのは、これからの100年に向けて会社の経営というものを考え、社員の雇用も含めた地域貢献、いまでいうCSR(企業の社会的責任)のようなものをやろうということ。

財部:
どういうことですか。

神原:
当社ではフィリピンと中国に造船所を造りましたが、たとえば電子部品や家電では、景気が悪くなったとか製造コストが上がったら工場を閉鎖し、場所を変えていくところが多いじゃないですか。でも「ウチはそういうことをしません、100年ここでやりますから」と、現地の町長さんや市長さんに伝えてあります。

財部:
それはなかなか思い切った発言ですね。

神原:
はい。ですから、その町に必要な学校、病院やスーパーなどの建設に必要な寄付を行っています。そのように本気で腰を据えた経営を、これから100年にわたってやっていくつもりです。 「『雇用を守り、地域とともに発展していく』と当社がやってきたのは、そういうことだったんだろうな」と、最近思うようになりました。それだけに、そういう考え方をもっと具現化したり、景気の浮き沈みに関係なく、地元の皆さんが求めることを、会社がやれる範囲内で持続できるように、きちんとプランニングしていきたいと僕は思っています。

財部:
どの会社も「地域貢献」って言いますよね。でもツネイシさんが凄かったのは、造船不況でお金がなくて、地域貢献どころではないというときに、「お金は出せないから、人を出して教育に協力します」とやられていたことです。ある意味で、それが地域貢献の本質ではないでしょうか。お金があるからお金をばらまくのではなく、お金がない時にもできることを地域貢献としてやる。やはり「百年の計」を考えてのことだと思いますね。

神原:
僕は本当の造船不況を経験していないんですが、父や祖父の時代はもの凄く大変でした。従業員の給料カットやボーナスゼロということも、たびたびありました。先日も、広島で講演させていただく機会があって話したのですが、私たちのグループ会社にパンやうどんを作っていた食品会社がありまして、過去には現物支給で凌いできたこともあったんです。「あんパンでボーナス」って言われても困りますが、それでも規模を拡大してこれたのは、運もあったからでしょうけれど、奇跡に近いようなことだろうと思います。そもそも、世界経済などの外部環境から、これだけ影響を受ける業界は、あまりないですからね。

財部:
しかも(世界経済は)この10、20年相当な問題を何回も繰り返していますしね。

神原:
でも僕も、経営については、造船業で本当にどうやって100年やってきたのか、今後どのように造船所を経営していったらいいのかということは、よくわかっていないですね。だいたい3年も先のことなんて分かりませんよ。だから、まずは足元をしっかりと固めつつ、長期のビジョンや構想を練ってそれを実行していく。それでも、結果的に駄目になることはありますよね、という話だと思うんですがね。

財部:
そういうことになりますよね。

神原:
でも、僕の父が、15年前にフィリピンに工場を作ってくれていたことは、今思えば大英断です。こういう田舎の造船所ですと、為替の値動きで業績がブレると、もの凄くインパクトが大きいんです。ブレるときは本当に、5円、10円の円高で、もう数百億円の損失になる可能性があるわけです。フィリピン工場は為替のリスクヘッジがもともとのベースにありますが、外貨収入も生まれているわけです。

財部:
はい、はい。

神原:
あと、思わぬ副産物は、人手不足の解消です。政府は、少子高齢化なんて呑気なことを言っていますが、国力の源泉はすなわち人口です。もう少し、海外からの雇用に対する門戸を開いてもらえれば、われわれのような田舎の小さな企業は、海外に出ていかなくてもすむんです。実際、フィリピン人でも中国人でも、ベトナム人でも、こちらで十分に雇用できれば、カントリーリスクを回避できるんですがね。今当社には、フィリピン人と中国人が500人ぐらい来ていて、彼らが現場を支えています。研修生として当社の工場に来ていて、研修を終えたら現地の工場に帰り、向こうで働くんですよ。

財部:
現地に工場があるから、本当に研修になるんですね。

神原:
そうです。今、日本の造船所で5000人採用しようと思ったら大変です。だから「思わぬ副産物」の効果が、今はうまく出ていると思います。ちなみに、われわれが中国に出て行ったのは6年前、2003年からですね。

財部:
お父さんも当時、そこまですべてを見通していたとは思えませんが、あとあとになって、実際に良い結果が出ていますよね。

神原:
面白いのは、日本の商社などが、東南アジアに工業団地をたくさん作り、日本企業を誘致していますよね。でも父はそういうところは避けて、ここよりもさらに僻地に工場を作ったんです。極端な話、その日暮らしで、朝、目覚めて魚を釣り、ご飯が食べれればそれで1日の生活が終わる、というようなところに工場を建てる。そうすると、現地の人々に現金収入が生じて街が様変わりする。地元をあげて当社の工場進出をバックアップしていただけるし、加えて、労働組合などの問題を考えても、大きなメリットがあるんです。

財部:
そうですね。