リスク・リターンの感覚を全社に「洗脳」した
財部:
商社のコアコンピタンスとは、いったい何でしょうか。
宮原:
ご存じのように、とくにアメリカの金融機関やアナリストは「商社はいったい何をしているんだ?」とよく聞いてきます。したがって、われわれも「いったい何が商社のコアコンピタンスなのか」ということを、うまく説明できなければいかんわけですよ。僕はこれをずっと考え続けてきましたね。
財部:
なるほど。
宮原:
それは、自社のビジネス基盤と機能を取引先や顧客のニーズに合わせて戦略的・有機的に統合し、新たな価値を創造する「総合力」ですよ。まあ、総合商社は世界でもユニークなビジネスモデルであり、結局はチームワークということになるんですが。いずれにしても、コアコンピタンスはコアコンピタンスとして、アメリカの金融機関からはもう1つ、「君たちは、これほどいろいろな事業をやっていて、どんなマネジメントをしているんだ」ということを聞かれるわけですよね。これについては、結論がなかなか出てこなかったですな。
財部:
ほお。
宮原:
結局、どう説明したら分かってもらえるかということで、いま当社でやっている、リスク・リターンをベースにした「改革パッケージ」のモデルを98年秋に作ったわけなんです。僕は90年頃にアメリカにいて、ゴールドマン・サックスなどの金融機関とつき合っていたりしたんですが、当時「なるほどなあ」と思ったのは、彼らが何においてもリスク・リターンをベースにしたものの考え方をしていたことです。ちょうどその頃、メキシコでデフォルト(債務不履行)が起こったんですが、アメリカの金融機関はちゃんと、それにみ合うだけのものを手元に持っておくんですね。その意味では、かつての大蔵省が決めた通りの金利しか稼げないような当時の日本の銀行だと、こういう発想は出てこないですよね。
財部:
そうでしょうね。
宮原:
だから僕も、彼らと話していて「結局、商社もこうでなくてはいけない」と非常に勉強になりました。それで僕は社長になってから、いろいろ考えたんです。例えば、同じ額の債権でも、非常にクレジット(信用度)の良い人が持っているものと、悪い人が持っているものでは、当然リスクやリターンが違う。でも、かつて商社は売上競争をしていて、「売上が予算」だというようなことが一時期あった。それで商売の中で「コンマ1パーセントでいいから入れてくれ」ということで、無理やり売上を伸ばすような場合もあったんです。ところが結局、それが相手方に対する膨大な債権になり、又それはリスクでもある。だから「なぜそんな商売をするんだ」ということになるわけで、僕は社長になってから、会社の中を「洗脳」していくのが大変でした。
財部:
そうなんですか。
宮原:
それで98年に「改革パッケージ」を作ったときも、リスク・リターンというコンセプトを打ち立て、社員に対して「商社のビジネスはこうでなければならない」と教育しました。会社の建直し計画(改革パッケ−ジ)の中で計画達成するまでの間、役員も含め社員全員に給与カットをお願いしました。そのとき僕は思ったんですが、(給与カットを)いわゆる役員及び管理職だけにすることは簡単な話ですが、それでは駄目だと。そこで「組合も入れて、社員全員でやらないと、皆が改革をやろうという気にならん」と話したんですが、組合員もそれを分かってくれましてね。
財部:
その変化は早かったですよね。その頃僕は岡社長にも伺ったことがあるんですが、いわば会社のカルチャーそのものを変えるような、大きな変化でしたよね。
宮原:
そう。僕は、彼が入社のときの指導員ですからね。
財部:
そういうご関係なんですか。
宮原:
ええ、それで気心は知れているんです。彼は営業出身でしたが、新たに「改革パッケージ」をやるということで、業務全般を手伝ってもらいました。それで彼は「社内の伝道師」のように、僕の代わりに一所懸命やってくれたわけです。
財部:
でも上からいわれて「はい、そうですか」とパッと変われるようでは、商社マンとはいえないという感じですよね。
宮原:
いや、ですからね、要するに誰でも自分の将来が大事。だから成果を上げることのできない人も、なかなか担当しているビジネスを止めない。そこで「あなたはこれだけの会社の資本を使っている。したがって、これだけのリターンがないと、会社は配当もできないし金利も払えない。だからリターンのない商売は止めなさい」という、共通の物差しを入れたわけです。そのためにビジネスラインを全部分解し、250ぐらいに分けました。そうやって「物差し」に照らして「この事業は合格、これは駄目」と分けていったのですが、その過程では、もちろん数字だけではなく、当社のポテンシャルといった定性的な事柄も考えなければなりません。
財部:
うーん。
宮原:
それでも、少なくともこういう手法でビジネスを見直さないと、「お得意様がある」とか「歴史がある」ということで、担当者・担当部署というものはなかなか不採算事業をやめられない。なにしろ当時、会社には不良債権がまだ山積みだったわけですからね。バブルの後遺症、とくに不動産などはたくさんありました。結局、僕は社長を5年間務めたわけですが、その間に1兆円近くはライト・オフしていますよ。
財部:
もの凄い金額ですね。
宮原:
ええ。ところが、それに次いで2001年に「ステップアッププラン」を作ったあと、僕は5年でくたくたになってしまったんです。当社では本来なら、社長の任期は6年間ですが、「1年早いが、すまないけれどやってくれ」ということで、岡社長がその路線を引き継いでくれました。それで、いま平常に会長を務めさせていただいていて、非常にハッピーなんですよ。
財部:
在任期間中をみるだけでも、大変な時代に社長を経験されたんですね。想像を絶するぐらいの激務だったのでしょう……。
宮原:
ええ、だから社長はやりたくないんですよ(笑)。それにくらべたら、会長の方が、なんぼかいいですよ。できるだけ社長の仕事がやりやすくなることを考えて、社長が必要とすることだけをみて相談に乗ればいいわけですから。
財部:
逆に、社長時代に「あれは楽しかった」ということはありますか?
宮原:
そりゃあもう、プロジェクトを立てて、社員が皆それに協力してくれたことです。そういう意味では、ウチの社員はものわかりがいい、といったら失礼ですが、皆がほんとうに素直に協力してくれましたね。
財部:
僕は、企業再生のドラマをいろいろ取材してきましたが、その裏をみると、ほんとうに大変なことばかりですよね。
宮原:
いや、それはもう、影では皆何かかんかといっていたと思いますよ。僕の耳にはあまり入らなかったですけれども。
財部:
宮原:
それはやはり、徐々に、徐々にです。とても皆が、サッとわかったということにはならんですよ。先ほど岡社長を「伝道師」のようにいいましたが、けっして彼だけではなく、たくさんの社員が営業部隊をリードして改革を推進してくれました。
財部:
これは商社の歴史の中で、初めてのケースですよね?
宮原:
僕はそう思っています。パーセプションをきちんと決めて、それをベースに毎年毎年、係数をリファインするわけですから。でも最近はそれがだんだん精緻になってきて、僕もよく分からなくなってきましてね(笑)。でも、ついこの間ですよ、銀行がリスク・リターンといい出したのは。
財部:
テーマを少し変えたいんですが、長い商社マン生活の中で、ご自身振り返って一番印象に残っている時代はいつですか?
宮原:
僕は商社マンとしては珍しいのですが、アメリカでしか海外駐在をしたことがないんです。若い頃のアメリカ駐在は1966〜73年で、僕はそれから18年日本にいました。でも最初のアメリカ駐在は30歳の頃で、当時アメリカは僕にとっての憧れでした。事実、アメリカは世界のビジネス・スタンダードでしたから、それを勉強するには絶好のチャンスだという気持ちがありましたね。貴重な経験だったと思います。
財部:
宮原会長のビジネスマンとしての、「核」のようなものができあがったのはいつでしょうか?
宮原:
この時期だったと思います。たとえばフェアネス、透明性然り。当時からアメリカのビジネスマンたちはそうだったですね。というのも、僕たちはアメリカに商品を売り込みに行くわけですから、得意先から引き合いがあっても、相手は当然ウチだけではない。もちろん数社に見積を依頼しているわけです。そこで購買部門で「ウチ、どうですか、ちょっと高いですか。高かったらもう少し安くしますよ」なんていったら、「何だ、お前は。始めからベストの見積書を出さなければ駄目だ」と怒られましたね。
財部:
この「経営者の輪」の流れでもそうなんですが、御手洗さん、中村さん然り、じつはアメリカで若い頃にビジネスの基本を身につけたという方がやはり多いんです。アメリカという国は、そういうインフラストラクチャー、かもしれませんね。
宮原:
僕もそう思います。悪いやつもたくさんおるけど、グローバルに通用するプリンシプルをたくさん持ってる。それに話してみて「なるほど」と納得すれば、わかってくれるじゃないですか。
財部:
意外と気のいいところがありますよね。
宮原:
その通り。僕が若い頃のアメリカ駐在で思ったのは、人間は、別に肌の色が違ったって同じだということですな。それはいえますよね。