全日本空輸株式会社 山元 峯生 氏
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自由競争にエネルギーを集中できる時代に社長になったのは幸せだ

全日本空輸株式会社
代表取締役社長 山元 峯生 氏

財部:
新日本石油の西尾社長とはどのようなお付き合いなんですか? 西尾さんの最初のご説明では、もちろん「一番のお客さん」ということですが(笑)。

山元:
石油もこんな時代になりましたし、航空機燃料価格がどうなるのか、先行きのご相談をさせていただいています。まあプライベートでも、西尾社長は愉快にお酒を飲まれる方ですので(笑)。

財部:
西尾さんはほんとうに、経理畑出身の社長さんとは思えない人情味のある方ですね。

山元:
豪快で(笑)。

財部:
ええ。でも、非常に驚いたことがありまして――。私はこれまで数多くの社長に、自分のサラリーマン時代を振り返って頂いてですね、「一番大変な時期はいつでしたか?」と伺っているんです。ところが西尾さんは「僕は無いんだよ」といわれまして、「そんな馬鹿な話はないんじゃないですか?」って聞いたんですが、やはり「本当に振り返って、大変とか苦しいとか思った日は一度も無い」というんです。まあきっと、そういう生き方をされてきたんだろうなあ、と僕も思っているのですが。

山元:
淡々としておられるんでしょうねえ、おそらく。お育ちは東京で、江戸っ子ですからね。だからこう、踏ん張ったり意気込んだりするのを粋じゃないと思ってるんじゃないですか? きっと「苦労の何」とかいわれて――(笑)。

財部:
山元社長はいわれないんですか?

山元:
うーん、私もいわゆる「血の小便」をするほど悩んだことは一回もないんですがね。

財部:
じつは、私が最初に山元社長に伺いたかったのは、1970年に京都大学法学部を卒業され、全日空を選んだ理由です。それにはどんなきっかけがあったんですか?

山元:
もう銀行などの就職試験が終わっていましてね。もともとそんな固い商売が自分に合うとも思っていなかったですし、自分で勝手に「陸海空」のどれかと思っていまして。

財部:
陸海空というのは、運輸とか運送分野だったんですか?

山元:
そうですね。私が全日空に入社した1970年は大阪万博の年で、私は4月に入社したんですが、当時は7月と11月にも入社があったくらいちょうどエアラインの高度成長期だったんです。新婚旅行で宮崎に行くのが流行った頃で、ボーイング737や727が飛んでいました。そんなで状態ですから、会社としても、あっという間に採用を決めてくれましたね。

財部:
それで実際に入られてみて、どうだったんですか?

山元:
いやもう、それこそ、産業自体が高度成長期でした。私が入社した1970年当時は、羽田空港に40人乗りの「フレンドシップ」という飛行機がありまして、われわれ係員がその発着場に3〜4段の階段のついたタラップ車を押していったものです。それがあっという間に560人乗りのジャンボになりました。乗客40人が560人になる一方で、パイロット2人、あるいは機関士を含めた3人で飛ばせられるのですから、生産性はどんどん上がっていったんです。ただ経営面では自由競争ではなく、営業上の割引運賃などもなく認可運賃だけだったので、座席数を多くできればそれ以外のことはある意味あまり考えなくてよかったということですよね。第一次、第二次オイルショックがその間に挟むようにありましたから、いろいろと大変なこともあったとは思うんですが。

財部:
私も思うところがあって、いろいろ資料も拝見しながらですね、やはりいま全日空にとって、発着枠をいかに取るかということが、これからの成長のうえで大きな課題だと思うんです。そうすると、どうしても政治などといったものが隣にみえてくる。山元さんはその辺と、どのように距離感をお持ちなのかなあと思っているのですが。

山元:
昔のことはよくわかりませんが、かつて日本全体に利権の暴走と、それを取り巻く産学官のさまざまなヒエラルキーがあったと思うんです。それがまあ、幸か不幸か、航空業界でも94年頃から規制緩和になりました。運賃一つをとっても、昔は6カ月ぐらい準備して路線ごとに認可を受けたものです。でも、いまは届出制です。それに発着枠の配分にしても、第三者機関などでの議論を経て、誰からみても透明性がある基準を作ってから配分しないと許されない時代になりました。そういったものに無駄なエネルギーを使わなくてすむ時代に社長になったのは、幸せだと思いますね。

財部:
なるほど、なるほど。

山元:
そういう意味では、きっと昔はいろいろあったんじゃないか、という気はします。若狭得治元名誉会長が社長になったのが1970年で、国際線が出たのが1986年ですから、あの方の豪腕をもってしても、16年かかっているわけですね。