“London Bridge is Down”
エリザベス女王逝去を知らせるコードネームです。
女王葬儀にいたるまでの詳細を定めたロンドン橋計画(Operation London Bridge)が動き出したのです。立案されたのは2017年。エリザベス女王は静養していたスコットランドのバルモア城で9月9日に亡くなりましたが、ロンドン橋計画では逝去場所もあらゆる場所を想定し、ロンドンのバッキンガム宮殿まで棺を搬送するまでの手順が入念に定められていました。陸路の場合、空路の場合に分けられ、さらに哀悼の念を抱いて沿道につめかける国民への配慮、警備にいたるまでそれは克明です。9日の逝去から19日の国葬まで、短時間の間に皇太子チャールズの国王就任や国葬に関する議会の承認、国歌も“God Save The Queen”を“God Save The King ”へ改める等々、すべてが整然と進んでいく様子にはため息がでます。棺は14日にウェストミンスター寺院に移され、国民が女王への最後の別れを告げたあと、19日に各国元首の参列のもと国葬が行われます。それにしても英国史上最大の規模となるエリザベス女王の国葬がここまで用意周到に準備されていたのは、英国(UK:United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を支配するアングロサクソンの気質としか言いようがありません。ロンドン橋計画は、当初は逝去から国葬まで10日間で行う予定だったそうですが、国民の惜別の思いが強いことに配慮して11日間に延長したのです。計画厳守だけがすべてではなく、臨機応変な柔軟性も兼ね備えているということでしょうか。
19世紀以降、英国には2人の女王が存在した。ヴィクトリア女王(1837年~1901年)とエリザベス女王(1952年~2022年)です。2人とも長命で、それぞれ女王として64年、70年もの長きにわたり君臨しましたが、2人が生きた時代は対照的でした。
ヴィクトリア女王の治世は19世紀、英国の全盛期でした。56か国、面積にすると世界のおよそ20%を植民地化し、文字通り英国が世界の覇権国(パックス・ブリタニカ)となった時代でした。
一方、エリザベス2世が女王に就任した1952年当時、英国はすでに世界の盟主の座から転落し、衰退の一途をたどっていました。第二次世界大戦後、世界は米ソ冷戦時代を経て米国が世界の覇権国(パックス・アメリカーナ)となり、政治的にも経済的にも英国は凋落する一方でした。ついにはダメな国家を象徴する言葉として「英国病」などという不名誉な表現まで生まれてしまいました。
またEU離脱を決めた英国ですが、それを機に国家分裂の危機を招いてしまいました。英国(UK)の正式な名称であるUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandからも、英国はグレートブリテンと北アイルランドからなる連合王国です。グレートブリテンとはイングランド王国(ウェールズを含む)とスコットランド王国が合同して成立した王国で、歴史上最古の国家であり、英国の基盤になっています。ところが、EUとの政治的・経済的結びつきを重視するスコットランドは英国からの独立に向かっているのです。そんなことになればグレートブリテンがグレートブリテンではなくなってしまうわけで、英国にとっては一大事です。
問題はスコットランドだけではありません。英国には旧領土である56の加盟国で構成されるコモンウェルス・オブ・ネイションズ(Commonwealth of Nations)と呼ばれる経済同盟があります。通称コモンウェルス(Commonwealth)です。
現在はみな独立国家ですから、経済同盟とはいいながら、かなりゆるやかな繋がりです。コモンウェルスのなかでもとりわけ重要な国である南アフリカは長く人種差別政策(アパルトヘイト)をしてきたことで知られていますが、ここに一石を投じたのは他ならぬエリザベス女王でした。アパルトヘイトに賛成していたサッチャー首相と一緒にアフリカのコモンウェルスを訪問した際、彼女は静かに反アパルトヘイトの姿勢を見せ、アフリカの人々に寄りそったのです。エリザベス女王の存在が、英国とアフリカのその後の関係にどれほど大きな影響をもたらしたか計り知れぬものがあります。
しかし近年、英国とコモンウェルスとの関係は希薄化する一方であり、スコットランドの独立問題も重ね合わせていくと、英国は空中分解のリスクが高くなる一方です。それをかろうじて繋げていたのがエリザベス女王の存在だったのです。事実、オーストラリアではエリザベス女王死去をきっかけに、英国王を元首とする立憲君主制の廃止、共和国制への議論が持ち上がっています。
もちろんエリザベス女王の治世が良い事尽くめだったわけもなく、英国民から王室へ厳しい目が向けられ、王室廃止論が高まった時期もあります。1997年にダイアナ妃が事故死した時には、チャールズ皇太子との離婚後だったことから、王室の対応が冷たすぎると国民から非難の嵐が寄せられ、これを機に、エリザベス女王は国民に開かれた王室へと大きく舵をきりました。それから四半世紀、英国民の3人に1人は女王となんらかの接点を持ったと言われるほどになったのです。それゆえ、多くの英国民はエリザベス女王逝去を心から悼み、悲しんでいるのです。19日にウェストミンスター寺院で行われる国葬は英国史上に残る素晴らしいものになるでしょう。しかし人望のないチャールズ新国王のもとで、英国がこれまで通り存続していけるでしょうか。「君臨すれど、統治せず」とは言いながら、エリザベス女王の政治的影響は絶大でした。新国王の治世がどうなるか。そんなことを考えながら英国の国葬を見守りたいと思います。
翻って我が国の「国葬」論議には目を覆いたくなる低レベルです。
ある朝、テレビをつけた時、私は某コメンテーターの発言に目が点になりました。
英国の人々がエリザベス女王の死を悼んでいる様子を伝えるVTRが流れたあとのスタジオトークで「国葬とはかくあるべし」と褒め称えた彼は、返す刀で安倍元総理の国葬の在り方を批判したのです。観ているこちらが恥ずかしくなります。安倍元総理の国葬への賛否は自由ですが、エリザベス女王と安倍元総理の「国葬」を横並びで比べるなど頓珍漢もいいところです。エリザベス女王は君主であり、その「国葬」は日本に当てはめると天皇崩御に際して行われる「大喪の礼」です。いずれも民主主義を超越した歴史的、伝統的な国家の式典として行われるもので、安倍元総理の「国葬」とは次元がまったく異なります。
言ってみれば、安倍元総理の「国葬」を天皇崩御の「大喪の礼」と比較しているわけで、支離滅裂な発言です。視聴者のなかには「そうだ、そうだ」と同調した人も少なくないでしょう。堂々たる無知がまかり通るワイドショーには戦慄します。
ただひとつ「国葬」をめぐり、英国と日本を横ならびに比較すべき点があります。エリザベス女王の国葬をするにあたり、英国政府は議会の承認を得ています。いいも悪いもなく、それは形式的な手続きですが、これが民主主義には欠かせないのです。この手続きを省略してしまったから安倍元国葬に反対の声が高まったことは間違いありません。国会を開いても自公で過半数を占めているのですから国葬は承認されます。この手続きを省いたから面倒が起こっているのです。
英国のトラス首相は“London Bridge is Down”の一報が入った瞬間、女王の国葬に対する議会の承認をとりつけだのです。形式的な行為です。誰が女王のさ国葬に反対するでしょうか。それでも議会に諾否をはかる。
日英の民主主義の歴史の差が顕在化したということでしょう。個人的にはエリザベス女王の国葬も、安倍元首相の国葬も、哀悼の念あふれるものになることを祈るばかりです。
【HARVEYROAD WEEKLY 220909号より】