3月7日に三井住友フィナンシャルグループ
(SMBCグループ)の前社長、太田純さんの「お別
れの会」に行ってきました。ホテルオークラ平安
の間で開かれた「お別れの会」には3,300人が出
席したそうです。社長就任からわずか4年、昨年
11月に65歳の若さで亡くなりました。
膵臓癌。
発覚からわずか6か月での逝去でした。痛恨の
極みです。職業柄、私は数限りなく経営者を見て
きましたがメガバンクのトップという究極のサラ
リーマンでありながら、太田さんほどイノベーテ
ィブな人物を私は知りません。太田さんは2019年
にSMBCグループの社長就任直後に、初のテレビ出
演となったのが「タカラベnews & talk」(BSイレ
ブン)でした。
「あの時は緊張したな」と後日、広報部長に語ら
れたそうですが、そんな様子は微塵も感じさせま
せんでした。非常に印象深く残っているのは國部
毅会長との対照的な姿です。じつは同番組には國
部会長にも社長時代にご出演いただいたのです
が、2人の出演スタイルは対照的でした。
メガバンクグループのトップですからBSとはい
えテレビでの発言は慎重にならざるをえません。
國部さんの出演時、広報部は事前に分厚い想定問
答集を作っていました。こちらも事前に大まかな
質問はお伝えしますから、派生的に出てきそうな
質問まで広報部はあらかじめ想定しておくので
す。トップのリスクヘッジは広報部としては当た
り前の仕事です。もっともそれをどう使うかはト
ップ自身の判断です。
國部さんは非常に頭の良い方で、手元の想定問答
集にはほとんど目を落とすことなく、想定問答集
通りに話されたのです。ご丁寧に私にもその想定
問答集が送られてきましたので、大筋は事前のシ
ナリオに沿って進行しましたが、当然、想定外の
質問も投げかけましたが、國部さんはなんの問題
もなく、論理的かつ簡潔に対応されました。
あたかも想定問答集に書いてあったかのごとく
です。当時の広報部が万に一つも間違いがないよ
うにと完璧を期したい気持ちはわかりますが、國
部さんにはそんなものはまったく必要なかったの
です。
それから5年後の2019年に太田社長の出演が決まった時、私からSMBC広報部の次長(当時)にお願いをしました。メガバンクのトップですから、想定問答集など作らずに自由に話してもらった方が良いのではないか。今後メディアへの露出が増
えるのだから過剰防衛はかえって良くないとも付け加えました。
するとその次長も太っ腹な男で、即座に「太田にもそう伝えます」と快諾。その趣旨を聞いた太田さんも即、了解となり、広報部も想定問答集を作らず、太田さんは徒手空拳で収録に臨まれたのです。
社長就任後初のテレビですから緊張するのは当然ですが、それはメがバンクグループの社長とは思えぬほど快活に話されたのです。高校時代にはバスケットボールで大阪府大会の決勝まで勝ち上がり、京都大学ではアメリカンフットボール部のキャプテンとして活躍した太田さんは身長も180センチを超える堂々たる身体でしたが、柔和な笑
顔の人でもあり、番組出演を機に親交が始まりました。
コロナ禍での会食はSMBCグループの迎賓館のような施設であった。大宴会ができるような大広間でのアクリル板を挟んでの会食は忘れられない思い出になってしまった。その折、太田さんは社長就任時に掲げた「カラを破ろう」という自らの呼びかけが具体的な変化を生み出していることを確信しているようでした。事実、SMBCグループは劇的変化を起こしつつありま
した。
「一番変わらなければいけないのは成功体験を持っている部署、すなわち長く本部(本社)にいる
人間たちこそが変わるべきだ」というのが社長就任直後のメッセージでした。
そのためには「些細なことから変えよう」と行内中に「カラを、破ろう。」のポスターを貼りまくり、ジーパンOKとドレスコードも撤廃したのです。保守的サラリーマンの典型である銀行員はダークスーツと白ワイシャツが制服で型破りはご法
度。中身を変えるためにまずはカタチから変えたのでした。
さらにSMBC本体ばかりかグループ企業の社員全員に起業を奨励したのです。定期的に審査会を開き合格すれば、入社年次にかかわらずスタートアップの起業家と認定し、出資もしました。もちろんそこでチャレンジ失敗したとしても、人事考課
に影響はないという前提です。成功事例も10社を超え、なかには電子印鑑で最先端をいくSMBCクラウドサイン社に発展しています。
起業家精神とメガの規模のチカラが合致した好事例も生まれています。そして進化を止めることなく、資金だけではなくあらゆる支援を、スタートアップの発展段階に応じた支援のインフラを構築しました。さらに個人の預金、入出金、クレジット、資産運用までキャッシュレスで行える
Oliveという金融インフラまで整備しました。太
田さんでなければこのスピード感は実現できなか
ったでしょう。まさに太田さん自身がイノベータ
ーだったのです。
中堅行員の時に、太田さんは日本において黎明
期にあったプロジェクトファイナンスをグローバ
ルに手掛けるチームの立上げに参画しました。そ
の後約20年間にわたりプロジェクトファイナンス
に携わり、国際的な戦略眼とリスク感覚を培いな
がら、SMBCの世界的な評価を獲得したのです。道
なき道を切り拓いてきたバンカー人生だったのです。
つまり社長になって突然イノベーターになったわけではなく、邦銀が欧米の金融機関からまったく相手にされなかった時代から隆々たる存在感を発揮するまで陣頭指揮を執り続けてきた行員だったのです。だからこそメガバンクグループの社長として異彩を放つことが出来たのでしょう。
お別れの会で國部会長は太田さんの実績をこう語りました。
「2019年に三井住友フィナンシャルグループの執行役社長に就任すると、役職員に対し『カラを、破ろう。』ど、固定観念にとらわれない自由な発想や挑戦を呼びかけ、金融サービスのデジタル化や、アジアの金融機関への出資、米国の証券会社との提携、社内ベンチャーを立ち上げる『社長製造業』プロジェクトの推進等、病に倒れる間際まで、SMBC グループの変革に全力を注ぎました。
また、経済的な成長のみならず、社会の発展に対
して貢献することの重要性を常に心に留めていました。
2023年度からの3年間を計画期間とする中期経営計画『Plan for Fulfilled Growth』では、脱
炭素社会の実現、格差の解消、イノベーションの創出といった『社会的価値の創造』を経営戦略の柱に据え、その確たる信念を経営に反映させました。故人は、大局観と繊細さを持ち合わせた、決金融界に現れたイノベーター断の人でした。仕事では失敗を恐れず、いかなる
時も前向きに楽しんで取り組むことを旨とし、大
胆で人間味あふれる経営者でした。
プライベートでは、読書やスポーツ観戦を愛し、笑顔を絶やさず優しさが滲み出る人柄で、多くの方々から慕われていました。その故人を失った今、思い起こされるのは、故人の座右の銘『愚公山を移す』という言葉です。
故人は、『努力を怠らず続けていれば、どんな大きなことも成し遂げられる』と、自ら組繊の変革の先陣を切るとともに、役職員による挑戦を温かく、力強く後押ししました。故人の人柄と功績に思いを馳せるどき、改めて深い悲しみと大きな喪失感が胸に去来しますが、同時に、変革·挑戦に対する故人の熱量や思いが、我々に深く根付いていることも実感します。
役職員一同、在りし日の故人の思いを受け継ぎ、お客さま、社会、そしてSMBCグループの持続的な発展に向けて業務に邁進してまいる所存です」
最期の振る舞いも常人のものではなかったようです。
2023年4月には検査入院し、膵臓ガンと告知され、國部会長には伝えられていたそうですが、退院後に出社した時には側近たちの心配をよそに「大丈夫」を繰り返し、見た目にも体重ももどってきたという印象を与えていたそうです。
しかししばらくすると痩せたり、黄疸が出たり、誰の目にもいろいろ変化が現れ「大丈夫ですか」と声をかける側近もいましたが、すると決まって、こう答えてたそうです。
「何が?」
何も問題はないだろうという空気を醸し出されてしまうと、部下はもう何も言えなくなります。
「あ、はあ・・頑張りましょう」
そんなやりとりの繰り返しだったそうです。
しかし太田さんは國部会長には4月の時点で壮絶な覚悟を伝えていたそうです。
「4月検査入院直後に病名を伝え、抗がん剤治療を受けるけれども、行けるところまで、これまで通りに仕事する。なんとなれば病気に打ち勝ってそのまま仕事を続けたい。本当に駄目だったら言いますから」という趣旨の話だったそうです。
そこから日がたつにつれ、体重が随分と落ちるなど治療の影響はでてきたものの、10月までは、まったく変わらぬ仕事ぶりだったそうです。10月上旬に、治療法を変更したことを機に頭髪が抜け、社内的にも、世の中的にもガンを患っていることを隠しおおせなくなったものの、太田さんは仕事のペースを落とすことなく、走り抜けたのです。
「ただそこで仕事を抑えるとか、切れが味悪くなることもなくて、相変わらずキレッキレの指示が飛んできていました。下世話な話ですけが、酒席も普通に行っていました。我が社がスポンサーをしていたプロ野球の日本シリーズが10月28日に始まったんですが、冒頭に植樹式などスポンサーとしての仕事には、太田社長はオレが行くよとなり、その後も普通に酒を飲み、タバコを吸い、全くペース変わらずでした」(広報部幹部)
11月25日土曜日の朝に太田さんは亡くなったのですが、11月の1週目までこの調子で問題なく仕事をやり抜いたというのですから、感服します。
そして正式に社長を退いてからあっという間に逝ってしまいました。人生の最期をどう迎えるのか。人それぞれの考え方があるでしょう。
しかし昔から「趣味は仕事」と答えてきた私には太田さんの散りぎわには共感しかありません。
「愚公山を移す」
まさに大きな山を移した方でした。