知床観光船沈没事故は私の古い記憶を呼び覚ました。出版社を辞め独立した直後に書いた初めての署名原稿のことだ。
1985年4月23日、稚内を出港した底引き網漁船“第七十一日東丸”がカムチャッカ半島沖で遭難。運良く船から脱出できても流氷漂う海では人は数時間も生きていられない。乗組員16人全員の生存が絶望視され、捜索活動も終わった。地元稚内では16人の合同葬儀がとりおこなわれた。
ところが遭難から15日が過ぎた5月9日未明“第七十一日東丸”の救命筏が知床岬付近の海岸に漂着したのだ。手足に凍傷は負ったものの、奇跡的に3人の乗組員が生還した。 救命筏には食料も備えられていたが、早々に食べ尽くしてしまった3人は天井にとまったカモメを捕獲して命をつないでいた。じつは沈没当初、救命筏には4人が乗っていた。しかし凍てつく海に長く浸かっていた一人はほどなくして絶命。3人はその亡骸をロープで筏に繋いで漂流を続けていたのだ。
奇跡の生還をマスコミは連日大騒ぎで伝えていたが、ひと月も騒ぐと飽きてしまった。6 月になると稚内への取材攻勢は嘘のように消えた。
出版社から独立したはかり、29歳だった私は地獄からの生還を果たした3人の人生に迫りたかった。中でも甲板長はこれが2度目の遭難であった。極限状況を2度も経験した人間の人生観はどう変わってしまうのか。3人が入院していた稚内市民病院に毎日通いながら家族や地元の漁師仲間に取材を続け、講談社の「月刊現代」に『第七十一日東丸・ 奇跡の漂流記』を寄稿した。
この取材で受けた衝撃が私のジャーナリストとしての背骨になっている。東京からメディアを通じて見る人間模様と稚内まで行って見えてくるそれとのあまりの違いに私は驚愕した。生き残った3人の家族はさぞや嬉しいに違いないと勝手に思い込む。しかし稚内では海難事故の犠牲者の妻たちは「3日間は泣き暮らすが4日目からはカネ勘定を始める」と言われていた。船員には船主がかける保険をはじめ、いくつもの生命保険がかけられており、遺族には十分な保険金が入いる。実際、稚内には海難事故遺族の立派な家が建ちならんでいた。合同葬儀も終え、遺族は海難事故に区切りをつけていた。ところが突然、死んだはずの夫が帰ってきてしまったのだ。複雑な人間模様が繰りひろげられていた。
生還者の1人は出港前に離婚が決まり、帰港後に離婚届を出すことになっていた。そのため保険金をめぐり妻と生還者の兄弟が泥仕合を演じて いた。奇跡の生還がハッピーエンドではない現実を目の当たりにした。他方、海難事故慣れしている地元関係者のあいだで「稀有の話だ」と話題になっていた生還者の妻もいた。「あの奥さんは心底旦那さんが帰ってきたことを喜んでいるわね。あんな夫婦見たことがない」
奇跡の生還=幸せというのは海難事故とは無縁の都市の人間たちの勝手な思い込みにすぎなかったのである。
マスコミの二次情報だけでモノを語ることがいかにミスリードになるか。取材の本当の価値を私に教えてくれた事故となった。
翻って知床観光船KAZU1の事故報道には違和感しかない。運航会社の社長の杜撰でデタラメな安全管理には怒りを禁じ得ないが、それだけに集中する報道は薄っぺらで事故の全体像を隠してしまう。このデタラメな運航会社を放置してきた規制当局の責任は甚大だ。なぜ検査をすり抜けて運航できたのか? 他の運航会社の実態はどうなっているのか? 事故の全体像をリアルに伝えてほしいものだ。