株式会社ブリヂストン 代表取締役CEO 兼 取締役会長 津谷 正明 氏
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真の意味でのグローバル企業になって名実共に世界一になる

株式会社ブリヂストン
代表取締役CEO 兼 取締役会長 津谷 正明 氏

25周年を期にファイアストン買収から学び直す

財部:
味の素の伊藤社長とはどういうご関係ですか。

津谷:
去年から味の素さんと弊社で、味の素さんのバイオテクノロジーをベースにしたバイオマス由来の合成ゴムをつくる共同研究をはじめました。それに伴い、昨年暮れには弊社の役員研修に伊藤社長をお招きして講演をしていただいたり、反対に私が味の素さんの役員研修に呼んで頂いて話をしたりと、交流が始まりました。伊藤社長とお話していると音楽や食べることなど共通の趣味が多くあるので話が弾みます。会社も近くですので、京橋あたりで美味しいお店を教え合ったり、一緒に行ったりすることもあります。今年は立て続けに3回公式の場で席を同じくしました。1つは経産省と特許庁主催の表彰式ですが、知的財産活動の中でも特に意匠制度を活用しているということで表彰されまして、その席でお目にかかりました。その数週間後、タイのインラック首相が来日された時、日経新聞社主催の昼食会に10社ほど招かれたのですが、その時にも伊藤社長とお会いしました。3回目がフランスのオランド大統領が来日された時、赤坂の迎賓館で朝食会が行われまして、そこの廊下でお会いした時に今回の対談のお誘いをいただきました。私にとって伊藤社長はラッキーといいますか、お会いすると良いことが続くので、とてもありがたく思っています。

財部:
そうですか。僕は新興国の取材を随分やってきまして、多くの日本企業がグローバル化を模索し苦戦している中、味の素さんはかなり早い段階からグローバル展開し、成功した数少ない日本企業のひとつだという認識です。そういう話を味の素の伊藤社長としたのですが、次は津谷さんが良いのではないかとご推薦いただきました。津谷さんはご存じないかもしれませんが、僕は以前出演していたサンデープロジェクトというテレビ番組で、日本企業の海外進出の取材を多くしていたのですが、その第一回は97年のアジア通貨危機直後のタイ取材で、その時にブリヂストンさんの工場にもお邪魔させていただきました。

津谷:
そうだったのですね。

財部:
経済が破綻したタイで日本企業がどう踏ん張っているか取材したのですが、当時は今と違って経済の専門番組もありませんでしたし、日本企業を対象にした特集というのは私しかやっていなかったのですが、その最初がブリヂストンさんでした。

津谷:
そうですか、ではご縁があったのですね。

財部:
今日はいろいろお伺いしたい事があるのですけど、事前にお答えいただいていますアンケートの「尊敬する人」という項目に「25年前のファイアストン買収、当時の経営の方たち」と書かれています。社長になられてから、さまざまなインタビューでも当時の話をされています。その頃、私はまだジャーナリストとしては駆け出しでしたが、僕のあいまいな記憶でも、あれは大変思い切った買収だったというイメージが残っています。もう一方で、日本企業のバブル時代のお粗末ぶりといいますか、みんなで不動産を買いあさり痛い目にあいました。みんなでいったい何をしているのだという感じでした。そのバブル当時に、不動産ではなく企業を買収して、それがいまでも収益に貢献しているという会社はものすごく少ないと思っています。当時の津谷さんの目にはファイアストン買収はどのように映っていたのかというところから伺いたいのですが、その1988年当時、津谷さんは30代ですか。

津谷:
そうですね、まだ課長になる前です。私は入社してすぐに社長室に配属され、経営トップに直接仕える仕事をしました。その部署は海外との折衝もやっており、私は当時、技術提携を結んでいたアメリカのグッドイヤー社の窓口もやっていたので、様々な海外事業の企画にかかわることができました。ファイアストンを買収して今年で25周年ですが、買収に至るまで経営トップはいろいろなことを検討していました。我々はそれをうけて交渉をしたのですが、とにかく長い道のりでした。最初はファイアストン全てを買収するのではなく、タイヤの生産販売の事業のみで合弁をスタートすることで合意していました。なぜかと言いますと、当時の我々の事業内容は日本とアジアが中心でしたが一方のファイアストンは南米やヨーロッパ、アフリカにも複数の工場を持っている国際企業で、更には多角化事業や小売事業も広く展開しており、当時のブリヂストンとまったく企業レベルが違っていました。ですからタイヤ事業でも我々には余り知見のない地域があり、時間を掛けて事業の統合を進める考えでしたし、ましてや他の事業はもっと時間をかけて検討しなければと思っていました。

財部:
じっくり検討してからということだったのですね。

津谷:
ところがイタリアのピレリ社が敵対的買収をしかけてきて、ファイアストン全てを買うというビッドを出してきました。そうなるとこちらも全部買うという対抗策しかなくなったので、結果的には元のアイデアとは違う形でスタートすることになったのです。この間、トップの方々が構想して、悩み、考え、夢を語りながら、その末で決断をしていく。私はまだ30代半ばでしたが会議中に「お前はどう思う」と突然意見を聞かれたことがありました。「いえ、私は」と遠慮したら、「会社のことを考えるときはみんな平等だ」と言われましてね、本当に素晴らしい人たちだと思いました。経営者として、人間として素晴らしい面をたくさん見ることができました。単に素晴らしいだけでなく、まったく想定していなかった敵対的買収という、それまでこの業界ではありなかったことへの対応を、苦しみながらやり抜いた凄さを、身を持って感じながら仕えることができました。

財部:
ピレリの敵対的買収が起こった時、本当にファイアストンをすべて買収して大丈夫かと、議論になったわけですよね。その時はどんな感じだったのですか。

津谷:
88年のはじめに合弁を発表しました。相手もうちも上場会社だったので公式発表をしまして少しほっとしていた所でした。発表から2週間後くらいにアメリカ出張があり、ファイアストンと今後の合弁の具体的な進め方についての折衝にあたって、事前に弁護士や会計士たちと打ち合わせをする予定でした。上司と私がアメリカに到着し、クリーブランドのホテルに入ったら連絡が入りまして、翌日の新聞には「ピレリがTOB」と出ていました。そこから2週間くらいは、ほとんど寝ていないというか、非常にハイな状態でした。これからどう動くのか我々もわからなかったし、買収金額やリスクがまったく違うレベルになりましたので、電話会議を何時間もやって、それこそてんやわんやです。日本側はいったい何が起こったのかと思っているし、こちらは投資銀行などいろいろなアドバイザーを集めて議論を重ね、最後に経営トップがアメリカに来て決断しました。本当にドラマのような2週間でした。

財部:
30代半ばの津谷さん個人はその騒ぎをどうご覧になったのですか。ピレリが出てきて、当初と違うシナリオになり、結果的に会社すべてを買収することになったわけですが、リスクや成長性について納得できたのですか。

津谷:
ブリヂストンという会社は、それ以前にもさまざまな案件を検討して、結局やめているのです。当時のブリヂストンは「石橋を叩いても渡らない」と、結局何もしないじゃないかと言われていました。当時の経営層は海外経験がものすごく豊富な方々でしたので、海外事業の難しさを一番よく分かっておられました。ですからTOBが起こったとき、このまま降りることを決断するかもしれないという思いもありました。でも、全部買収したらどうなる、というところから検討がはじまりましたので、まったく先が見えない状態でした。私としてはやっても大変だろうと思いましたし、やらなくてもグローバル化の道からまったく外れるなと。どちらを選択しても大変だろうと思いました。

財部:
過去のインタビューでも「経営はブレてはいけない、ということをファイアストンの買収から学んだ」というお話がありますが、何がブレてはいけないのか、その時の経験を踏まえて具体的に教えていただけますか。

津谷:
やはり戦略だと思います。ファイアストンとの合弁、あるいは買収も基本は戦略です。当時、業界の再編、統合が急速に進んでいました。我々もいろいろな可能性を探り、戦略を作って、グローバルな企業になりたいというビジョンを持っていました。途中、想定外のことが起こり、妥協を余儀なくされましたが、それでも大きくはブレなかったのだと思います。

財部:
そうすると津谷さんもCEOになる以前から、ファイアストン買収を決断させた際の「グローバル企業になるのだ」という強い思いをずっとブレずに持ってやってこられたのですか。

津谷:
ファイアストンを買収した後、とても苦しい時代が続き、難しい局面に何度も立たされました。それが6、7年前にやっと大きな問題が片付きました。ですから、もう一度あの時の精神に戻って、本当の意味でのグローバル企業になろうと言っていた当時の経営者たちの思いも背負って、もう一度、グローバル企業の文化や体制を作るのだという思いでやっています。